savepoint628

2013〜2019の手記

お疲れさまでした

年の終わりが近づいています。しばし更新が滞っていたのは、実験的に新しい記事を note へ移行していたためです。いくつか記事を書いてみて、移転する決意ができたので、このセーブポイントは更新を終了したいと思います。これまでお読みいただきありがとうございました。それではさようなら。

12/30/2019 8:42:31 AM

どっちつかず

自分の中で明らかに刺々しさとか、息苦しさの爆発みたいな感情が薄れていて、ようするに少し安心してしまっている。あっ一応生きていけるんだすいません。みたいな。少し前まではあと十年生きていけるかも不安だったけれど、今のままなら十年くらいは生きていけそうだと思っているし、それからさきもたぶん生きているだろうっていう気がしている。その安心感の由来はきっと、一人で暮らしているからだろう。なんだかんだ、親元にずっといるというのは心地よくはあったのだけれど、義務を放棄しているような、居場所のない感じはずっとしていた。洗濯をして、掃除をして、料理をして、買い物をして、へえこういうのが人間なんだなってそういうのを改めて知っているのがまるで、社会の一員に混ざっていこうとしているみたいで、安心している。悔しいけれど、そうだと思う。好きな曲を聞いて、一人で下手な歌を歌ったり手拍子を叩いたりできるというのも事実だ。そのかわり結構たくさんいろんなものを捨ててしまった。過去大切にしていたものでも、今ではないと感じるものは大概捨てた。空恐ろしい薄情さがある。そういう自分を一年前の自分が見たら、舐めるなと吠えていたかもしれない。正しからぬ生き方だと感じたかもしれない。どうせ主義主張を壊すなら、もっとめちゃくちゃになってしまえばよかった。髪を剃って寺に行くとか、駅前で歌を歌うとか、牧場で牛の糞をさらうとか、そういう一瞬時間が止まるような姿になりたかった。とはいえ、がいつも絡みついてきて、最後の決断をしてない。たぶんそういうことを十代に謗られたい。

エモすぎてよくわからなくなってしまった。まとめると、ぬるくなった自分が気に入らないということ。精神的にはたぶん、テロリストなんだろうと思う。

11/17/2019 10:05:59 PM

最終回になりかねない物言い

なぜだか気分が沈みがちで、あまり頭が働いていない。自分からなにか行動を起こそうという気力が枯れて、嘘のようにやる気が無くなっている。自分で自分に幻滅しているのだと思う。というのは、こうして文章を書いているのが息苦しいからだ。言葉と戯れるような気楽さはなく、心を見つめる真面目さもない。

余暇は延々とゲームに費やしていて、なにか罪深い生き物になったような気がする。自分のどこかから、それでいいんだよという声も聞こえる。休日好きなことをして、好きなように生きて最高じゃないかと。何が問題なのかと。

ふざけるなと言いたい。本気でそんなことを言っているのか。100%他人事の同情じゃないか。望んでそういう人間になったわけじゃない。他に楽しいことが無かったからゲームをしているだけだし、もし心がそう望むならまた文章を書きたい。何かを成し遂げたい。心の支えになるようなものが欲しい。

そういう性根、もっと澱んだ打ち明けがたいもの。それを口にだすことができず、会話が上滑りするのがもどかしい。そういう上の空なので、閉店間際のデパートみたいに静々と働いていて、おそらくたぶん熱がない。それが、皆の癪に障るのではないかというのが怖い。

不安は夜に解けて夢に来る。頭をおかしくする。それを和らげる秘訣は心得ている。大丈夫。なにもないという一言。無責任極まる他人の言葉。このような魔法の言葉はしかしそれでいて正しい。腹ただしいことに、明日が来れば、何もないし大丈夫なのだ。当たり前のように出社して、働いて、帰宅して終わりだ。

まさにその無力感。心の宿らない物言いが事実になってしまう悔しさ。あなたはべつに悩んでなんかいないし楽しく生きてるでしょう。何が不満なの。と笑われて何ら反論するところのない事実。安穏と生きて、飲み込んで、でもどこかではちくしょうと叫ばずにはいられないのが現状。癇癪持ちのような不可解な感情の発露はつまり、そういうことだと思ってほしい。

10/17/2019 12:21:42 AM

まとまらない日常とノイズ

  • 寝癖のついた頭で歯ブラシをこすっている。洗面所に来た彼女が、何か声をかけてくれた。返事をしようとしたら、言葉にならない泡を吹いて。思わず二人とも笑った。(もちろん、そんな事実はない。妄想である)
  • 鏡も見ないで着の身着のまま家を飛び出し、田舎へ向かう電車に乗った。国立博物館への案内を聞き流して、何もない駅で降りる。真っ先にぼろぼろの建物が迎える。コンクリートが剥がれて剥き出しの鉄筋が覗いている。天候は曇天、晴れを見たのが一体何日前なのかというほど、太陽はぐずついて二度寝三度寝を繰り返している。
  • 猫にとって、接待の時間は5分ほど。それ以上の時間はもらえなかった。
  • 車のエンジンをかけると、入れっぱなしになっていたCDから、時代がかった曲が流れてきた。しかし、歌い出しの数小節を聞いただけで、母はボリュームを絞る。もう、CDなんて捨ててしまったから、これしか残っていなくてね。もう嫌になるくらい聞いたのよ。
  • ピンボケ状態で歩く。車と人を避けて大通りから1つ外れた道を歩く。スラムのように落書きと汚れ、埃に満ちている。駐車場の「空」という字が目を引いて。苛立ち混じりのクラクションで我に帰る。蝉が遠くで鳴いている夕暮れ時だった。階段を登り、自室の鍵を回す。薄っすら滲む汗を拭い、自らの心拍を確かめたあと、水道水を飲んだ。
  • 朝食を抜いてきたので何か口に入れたかった。しかし、まだ正午まで一時間もある。手頃な店は、どこもかしこも準備中の看板を下げている。あてもなくさまよった末に、カレー屋に辿り着いた。地図を見なかったら絶対に見つけられなかっただろう。薄暗く、狭い路地の奥にあった。こんな時間だというのに、行列ができている。蔦に覆われたアパートを改造した店だった。前に並んでいる男女が、記念の顔出しパネルを手にとって写真撮影に興じていた。ほどなくして店内へ導かれた。乾燥させたハーブを詰め込んだ瓶がいくつも並んでいる。店員たちは忙しなく働いている。店長だろうか。キャップを後ろ向きに被った髭の男性がカレーを運んできた。スチールの皿の上に丸く盛られた細長い米。これをスプーンで崩してカレーに浸しながら食べる。口に含むと舌に痺れを感じる。時折ナッツの軽い食感。やがて滝のように汗が噴き出してきた。次の客が並んでいるため、汗が引くまでのんびりしているわけにもいかない。店を出たが、やはり汗が気になる。とにかくどこでも良いので涼みたかった。すぐ近くのスーパーが開いているのを見て、すぐさま足を運んだ。店頭には両手に収まらないほどの大きな西瓜が並んでいる。値札は3000円。一人者には絶対に必要のない代物だ。しかし、これを持ち帰った家族もあるのだろう。ぽっかり隙間が空いている。西瓜を食べたのはいつだろう。遠く感じられるほど過去の話だ。落ち着かない気持ちで、ポケットの中のキーをもてあそぶ。
  • 遺骨を海に撒いてくれという願いを聞き届けるために、旅をするのであろう。
9/14/2019 12:52:17 AM

夏の断片

  • 週末は実家に帰り、道すがら花火を見た。夏のごとき行い。
  • 民家の隙間から見る花火は、わずか数秒の中に、赤や黄色オレンジに緑の色を尽くしている。最後は重力に引っ張られて下向きに火が落ちる。鮮やかな。明るい色。大玉が打ち上がる。音が遅れてやってきて、そうか稲妻と同じだと気がついた。近くの雲が花火の色をもらって、少しばかりネオンカラーに色づいて見えた。
  • 日が暮れる頃、電車で座っていると、若い女性四人組が乗り込んできた。みな違った彩りの浴衣を着こなしている。中でも鮮やかな藍染の浴衣に目がいった。菖蒲の花びらと、青い金魚が描かれている。二秒も視線を奪われた。衣類がその人となりを表しているとは思えないが、こんな人がそばに居てくれたらという錯覚をみた。すぐに視線を切って、それきり記憶から消した。
  • 普段行かない店へ行く。頼んだ料理はチキンにチーズをのせ、バジルソースをかけて焦げ目がつくようにオーブンで焼いたもの。カボチャのマッシュサラダ。輪切りのレモンが清涼感。カウンターのお姉さんが、夜映画を観に行く相談をしていた。籠にはみずみずしいレモン。
  • 深夜に冷蔵庫を開けて、残しておいたシュークリームを持ってくる。かぶりつくと中に詰まったクリームがはみ出してしまった。誰も見ていないのをいいことに、こぼれたクリームをなめとる。滑らかで、甘い。
  • 咳が止まらず、ほとんど眠れなかった。昼過ぎには家を出て駅まで車を出してもらった。住宅と田畑が途切れ途切れですっきりしない風景。水田の近くでたむろしていたトンボが散っていく。
  • 最寄駅の待合室は、空席が目立った。空調が効きすぎるほど効いていてありがたい。幼い姉妹と両親がやってきた。ピンクのボーダーカラーのドレス。腰には大きなリボン。パールのネックレス。ヘアバンドにはカーネーションの花飾り。妹はバレエシューズのような平たい靴を、姉は黒く艶のあるかかとの高い靴を履いている。なにかのパーティーに出席するのかもしれない。
8/18/2019 4:10:38 PM

彼方のアストラ

アニメ、彼方のアストラを六話までみた。 故郷を遠く離れた宇宙に放り出された若者たちが惑星を旅する話。爽やかで、楽しそうだなと思う。青春、冒険、成長、そして空想科学。古典的なよさがある。それから特別感じるのは、いろんな出来事が理路整然としている、ということだ。AならばBと言う因果関係がすごく明示されていて、わかりやすい。様々なことに理由が提示されるので納得感がある。けれど、整いすぎていると言う違和感をも生んでいる。手頃なトラブルが、一定の解法を携えて降ってくる。種々の災いは、無茶なように見えて、いるべき人がそこにいて、しかるべき時に降ってくる。まるで、神が与えた試練のように。解法はそこにある。だからこそ爽やかで、すっきりするのだが、けれど何か、特別の感情が湧いてこない。たとえ仲間の一人が裏切り、銃を手に取ったとしても、最悪は訪れないだろう。胸の内で確信している。この物語は決して裏切らない。息がつまり、胸が苦しくなるような結末は決してない。そう思う。きっと彼らは、 作者の優しさに包まれている。子を守る親のような愛情のようなベールに守られている。大切に作られたストーリーなのだろうと推測できる。しかるべき姿だと思う。けれど邪悪な私にとっては、それが玉に瑕のように思える。生きるのはもっと泥臭く、退屈で、凄惨で、容赦ないことなんだ。と、知った風なことを思う。それは願望かもしれない。自分が苦しんだことと同等かそれ以上の苦しみをすべての人に味わってほしい。そうして分かち合いたいという。心が不公平だと喚いている。

8/11/2019 12:48:45 AM

キャストアウェイ

飛行機が落ちて、無人島に遭難した男の話。

最後ふんわりしていてよくわからなかったけど、面白かった。ただくだらないことを言うなら、無人島で生きていくのはもっとずっと困難なことだと思う。というのはディスカバリーチャンネルでそういう企画やっている人のドキュメンタリーを観たから。栄養が全然足りなくてもっと痩せる。ココナッツはなかなか育たないのですぐ尽きる。最初の数日で火起こしできなかったら死んでる。きっと四年も生きられない。虫とか熱射病にもっと悩まされるはず。寝床とかももっと環境よくする必要がある。とかそんなしょうもない違和感があった。

So now I know what I have to do. I have to keep breathing. And tomorrow the sun will rise, and who knows what the tide will bring in.

息をし続ける。その言葉が胸を打つんだけど、それだけを聞くととてもバカっぽい。そりゃ生きてれば息をする。難しくもない。誰だってそうしてる。小学生のやりとりみたい。けれど、何年も孤独に生き続けて、心の拠り所だった彼女とも別れて、そういう袋小路にやってきて呟く言葉だからとても意味があるというか。壮絶な体験の中で擦り切れてもういいやってなりそうなところなんだけど、生きていきます。と、それは諦めなのかな。生きてくしか無いよね。不幸でも辛くてもしょうがない。どうしようもない。ということ? いや、どんなに辛くとも何が起こるかわからない。希望の種はある。ということ? わからないけれど、励まされているような気がする。

8/5/2019 12:22:58 AM

自動書記でお送りします

1日を終えて布団に入った。眠りたくは無い。まだ何も楽しいことがない。もっと楽しいことがないと眠れない。Twitterを開く。つまらない。津田大介のニュースで退屈を紛らわせるが下衆な喜びを感じる。嫌いな人が叩かれている様を見て喜んでいる。それだけだ。邪悪だ。品がない。自分を諫める。そういうことじゃなくて心が躍るような事は無いかな。胸が熱くなるような事は無いかな。いや、急に何を言っているんだ俺は。めちゃくちゃな要求だ。求めすぎている。愚かすぎる。貪欲すぎる。傲慢すぎる。もっとささやかなことに目を向けるべきだ。もっと一つ一つを大切にするべきだ。心が肥えて太っている。いや、肉体的にもだ。馬鹿みたいに食べ過ぎたり、真夜中にお菓子を食べたりして欲望に歯止めがきかなくなっている。喜びを感じる感性が麻痺している。何でもいいんだ。好きなものをまっすぐに見なくては。例えば、ぬるい水道水の中に冷たい氷を落としたときに聞こえる音。氷が溶ける音なのか、あるいは氷に閉じ込められた空気が逃げ出していく音なのか、わからない。わからないけれど、その音に耳をすます。その瞬間感じている事は奇妙な喜びだ。自分だけが知っているような秘密の音。そんな気がしている。何かが縮むような絞り出すような音だ。それをコップに耳をあてて聞いている。全く意味は無い。心地よい音ではない。けれどそれをちょっぴり楽しみにしている自分を否定できない。きっと誰かに自慢したい。氷が溶ける音を知ってるかい。そんなふうに切り出したい。風呂に入ったことを覚えているだろうか。今日は珍しく風呂掃除をしたね。排水溝に詰まった髪の毛と、石鹸のかすが絡まりあってグロテスクだった。もとが石鹸だから不潔でもないのかな。そんなことを考えたけれど、ベタベタしていて汚いのは間違いないな、って思い直した。そのグロテスクな塊を取り除いただけではまだべたつきが取れなかったから、しかたなくスポンジを手に取った。力任せに擦ってみれば、あっさりきれいになった。その時喜びを多分感じていたんだな。わざわざ口にしたりはしないけれど。あーきれいになったな。そう感じた。よくやったな。自分を褒めていた。それって本当は楽しいことなんじゃないかな。喜びだと言っていいんじゃないかな。見逃していた。そういうこと。多分、自分が小学生だったら絶対自慢していた。学校で会う仲間とかに。いや、「とか」じゃないな。他に話し相手なんていない。まぁいいだろう。ともかく何気ないことを、何気なくさらさらとアウトプットしていた日常があったはずだ。それが今ないから自分の日常をほとんど無視していてしまっているのだろう。話すことの中に喜びを見いだす。そういう性質があったなんて意外に感じる。普段話したがらないくせに。いや、そうだな。それはわかる。説明できる。こういう何気ない話をするには、何気ない関係を作らなきゃいけない。例えば、同じ家で過ごす家族だったり、学校で出会う友人だったり。会社でそういう人がいないんだな。日常の中にそういう人がいないんだな。1人で暮らすようになってから転職をしてからそういう風になった。意識してそういう存在を作らなきゃいけないんだと思う。話すことを楽しみたいならね。でもそれがどうも得意じゃない。理由がないのに話しかけるっていうのができない。だから話しかけて欲しいんだけど、まぁ話しかけられたって急にはなかなかうまくいかないね。だから話をする代わりにこうやってバリバリと書き出していけばいいんじゃないかな。そういう気がした。この結果、気持ちよく眠れそう、とまでは行かないが、虚ろだった一日が何かで満たされるような気がするんだ。こうして話してみるとね。

8/4/2019 1:58:46 AM

アコヤツタヱ

寝る前に、佐藤将のアコヤツタヱという漫画を読んだ。全部で三巻。古代の村で起きた戦争の話だ。アコヤという鍛冶屋の娘が、戦いに巻き込まれひどい目に会う。それでも強かに生き抜いていく…という話かと思ったらそうでもなかった。最後はブラックな部分が全開で、壮絶に弾けて、めちゃくちゃなまま終わってしまった。たぶん打ち切りだったんだと思う。アマゾンレビューでは星5ばかりだったけど、さすがにそれは過大評価だと思う。パワフルで引き込まれる部分はあったけど、名作だとは思えない。

このお話がどうなってほしかったのだろうか。何を期待しながら読んでいたのだろうか。そんなことを自問しながら布団に入った。思うに、不幸せな動乱の中で足掻く話が好きだけれど、まだもっと激しく燃えることができたのではないか、というところが消化不良なのだろう。アコヤは結局、無力だった。周りに振り回されて、いいようにされてしまった。そのあたりが、理不尽で哀れだった。納得できなかった。

やはり熟睡できない。明るくなってきた頃に限界が来て、やっと眠りに落ちた。

目を覚ますと、午後四時だった。さすがに酷いなと思って笑えた。鼻水が出ている。エアコンが効きすぎていたようだ。

近頃外食ばかりしていたので、台所に立つと決めていた。昨日買っておいた細切れ肉を焼いて、その上に麻婆豆腐の素をぶちまけた。最後にサイコロ状に切った木綿豆腐を投げ入れる。それが、自分に作れる一番まともな料理だった。

どんぶりいっぱいの麻婆丼を食べながら、タイムラインを眺めた。障害者が国会議員として当選した話。生活保護で支給されたお金をパチンコに使うことの是非。SNSで誹謗中傷を受けた人が裁判を起こした話。甲子園のエースを休ませた結果、試合に破れた監督の話。天気の子を観た人の感想。

それぞれが一つのテーマになりそうなのに、関心は中の下。すべてが他人事だった。しょうもない日曜日を過ごしている。土曜日はゲームばかりしていたから、今日はゲームはしないつもりだ。やることがない状態を作ることで無理やり自分が文章を書くように働きかけている。

7/28/2019 9:56:41 PM

東京

一週間近く、東京行くことになった。

初めて出勤した本社は、気後れするほど綺麗で、新しかった。エントランスは、何かのイベントホールみたいに広く、天井が高い。エレベーターも広々としているし、全部で十八基も稼働している。休憩用のスペースはカフェみたいな様子で観葉植物が活けてあり、洒落た音楽が流れている。小さな会議スペースが無数にあり、そのすべてにタブレット端末が備え付けられている。ずいぶんモダンなオフィスだ。

けれどだからこそ、居心地の悪さも感じてしまう。似合わない服を着ているみたいな、場違いな気がしてしまうのだった。

さらにここ二日間は修学旅行みたいなイベントがあって、箱根の宿にこもってプログラミングをしていた。ここも環境はすばらしくよかったけれど、同室のメンバーと面識がなく、ぎこちなさを拭い去ることができなかった。宴会が始まったあとも、一時間足らずで席を離れ、早々に眠ってしまった。人とのコミュニケーションに関しては、ある程度の演技力が身についたと思うけれど、ときどきしんどい。

プログラミングの成果はあったし、食事もおいしかった。全体としては、よい環境で、よい体験をできたはずなのだけれど、百点を出せない。心から満たされない感覚がある。他の人と比べているからかもしれない。いずれにしても、箱根は終わり、すべてのイベントは消化した。残り時間で観光する時間を確保したつもりだったが、その元気はない。今はただ帰りたい。

ホテルをチェックアウトしてすぐバスに乗り、空港へ向かう。見慣れない街を抜けて、空港へ降り立った。トランクを預けたら、搭乗までやることはない。時計を見ると六時間以上の余裕があった。

空港の中をふらふらと歩きまわってみたが、目を引くものは見つからなかった。くつろげる場所を探して、狭い道を歩くと、喫茶店が見つかった。窓際の席には電源があるし、広い窓に面していて見通しがよい。外で飛行機がゆっくりと動いているのを見下ろすことができる。広い空と滑走路を挟んで、遠くの街並みが水平線をなしている。しばらく居座ることを決めて、ノートパソコンを広げた。

日記を書くのに没頭している間に、喫茶店は騒がしくなっていた。いつの間にか、若い男女が隣の席に座っている。窓の外を指さして、あの飛行機はこういう機種だとか、ちいさくて形が可愛いとか、楽しそうに言葉を交わしている。空港デートなのかもしれない。

二時間が過ぎた。二人は別れ際に、帰りたくないねと声を掛け合っていた。そんな言葉が妙に胸に響いて、羨ましく思えた。東京では、帰りたくないねと心から言える時間を過ごせなかった。いつも翳がさしている。

空席は十分もたたないうちに埋まった。言葉のままならない幼児を抱いた母親が来た。それから、夢中でおしゃべりしている二人の婦人が座った。電話で商談をしているビジネスマンもいた。色々な人が座って、去っていく。一角が慌ただしく変化していく中で、ただ僕は取り残されている。いや、時間だ。氷が溶け味の変わってしまったコーヒーを空にして、席を立った。

6/30/2019 5:37:03 PM

寂しさ

ただ生きるのにいっぱいっぱいで溺れそうだ。社会人を演じている自分が、いつか壊れてしまうのではないかと不安に覆われる。抵抗しがたい、漠然とした何かが、ふとした時間の隙間や、眠れない夜にやってくる。

何でもいい、誰かに話しかけたい。

未来が見えないとか、表現しがたい不安を紛らわすために。胸の内を晒したうえで共感してほしい。訳のわからない息苦しさを抱えているのが自分だけではないことを確かめて、寄り添っていきたい。

けれども、それは夢想に過ぎないと諦めている。仮に自分の傍に友人や彼女、あるいは家族がいたとして、本当に心から、今現在感じる不確かな苦しみを、一片でも口にできるだろうか。おそらくは不可能だろう。

なぜなら、分かり合える姿を想像できないからだ。苦しみの原因が説明できないし、身体的異常もない。仕事や収入に不満もない。そんな状況で「苦しい」「助けて」「分かって」と訴えたところで説得力のかけらもない。

それは甘えか、冗談か、扱い難い精神病か。

冷静な第三者の感想は、せいぜいがそんなところだろう。共感とは程遠い。親しい人であっても、憐れみを引き出すくらいのことしかできない。そんなふうに想像できる。こんな手に余る問題はそっとしておくのが一番だ。けれどこの気持ちをこのままに留め置くほどの辛抱強さが、自分にはない。

「寂しい」という言葉が口をついて出る。

誰の耳にも届かない。意図のない発言だが、たしかに思考がひとしずく、こぼれていった気がする。ああ、そういう事かと合点が行った。私は、ただ寂しさが苦しく、ただ寂しさを分かってほしいのだ。そう考えると腑に落ちる。考えに飽いて、寂しさという単語に全て押し付けているだけかもしれないが、もっともらしい仮説に思えた。

5/25/2019 6:13:08 AM

右も左も分からない

三十を過ぎて、初めて両親から独立して一人で生きていくことになった。わからないことがあまりに多すぎる。生活をしていくのに何が足りないのか。どこで何を買えばよいのか。どうやって家事をするのか。料理などもってのほかだ。すべて母に任せきりだったため、ティッシュやシャンプーといった、ちょっとした消耗品さえ、どれを選んだらよいのかわからない。

仕方がないので、迷った末になんとなく選ぶ。無駄に高価なものを買ってしまったり、自分にそぐわないものを買ってしまったりしそうで気が引けた。正解などあるはずもないのに、どこかで正解を探してしまう。失敗しても取り返しがつくのに、躊躇してしまう。わからないけどやるしかない、みたいなものがひたすらに続いて、そこには答え合わせもない。それが、落ち着かない。間違った生き方をしているんじゃないだろうかと思ってしまう。

シャンプーを一個選ぶのに右往左往している様は、さぞかしみっともない姿だったろう。職場では一端の大人のようなふりをしているが、中身はこんなものだ。人間としての経験はあまりにも浅い。限られたことしか知らない、決断できない幼稚な存在なのだ。こうして自分を卑下するたびに、そんなことは誰も気にしていない、と反論する声がどこかから聞こえる。きっとそのとおりだ。けれど、自分がそう思ってしまうのは、抑えようがない。だからこれを繰り返しながら生活雑貨を集める。

その繰り返しがしんどくて、友人に助けてもらったり、通販に頼ったりしてなんとか環境を整えた。ただ、かつてないほどあちこち出歩いたせいか、だんだん体調が悪くなった。引っ越しの重労働で体力を失っていたところに、買い物と仕事でさらに消耗したのかもしれない。喉の痛みから始まって、風邪のような症状になった。

これはよくないなと思いながらも、生きていくために仕事をしなければならず、また食料を買いにでかけなければならなかった。ふらふらしながら一通りの目的を果たしたが、確実に体調は悪化した。休もうと決意した翌日には、あまりの倦怠感のために、身体をまっすぐ起こしているのさえ辛かった。夜には、悪寒で震え、頭痛と、汗をかくほどの高熱に苦しんだ。悪夢を見て眠れなかった。

朝になると熱は少し治まった。ただ、喉の痛みと頭痛、咳が治まらない。膿のような痰を吐いた。そして、尿の色が濃い。吐き気も少なからず感じたが、水のほかは何も口にしていなかったため、異物で新居を汚さずに済んだ。

なにかよくないものに罹ったのだということはわかったが、来たばかりの街で病院がどこにあるのかもわからない。何より出かける気力がない。病院に行って、診断のうえ治療を受けるのが一番良いということはわかっていたが、もう少し休めば回復するだろうと思った。なにより出かけたくなかった。体が弱っていて、風呂に入ったり着替えたりするのも億劫だった。

あまりの虚ろさで気が狂いそうだったので、しばらく疎遠だった知己に声をかけて、会う約束をした。それが一通り終わると、枕元に置いたタブレットで動画アプリを開いた。現実にしがみつくようにドキュメンタリーのチャンネルを選んだ。人が住めないような秘境で生活する番組を見た。それから、自衛隊のレンジャー隊員の訓練を紹介する番組を見た。二つとも、いま自分が置かれている環境よりも、遥かに過酷な環境で、ほとんど食事を取れないような登場人物ばかりだった。奇妙にもそのことに励まされて、水があるだけでも幸せかもしれないと思った。

今はもう病は癒えたけれど、わからないことだらけの世界から脱却することはできていない。

4/29/2019 1:24:02 AM

緩む

カーテンのない窓から朝日が差し込む。鮮烈な眩しさに目を細める。耐えられない。昨晩は遅くまで起きていたので眠り足りないが、この環境下では起きるしかない。

引越してから一週間が経つ。見慣れないと感じていた部屋の内装。つやのあるフローリングと、真っ白な壁紙。それらに目を向けても、何の感情もわき起こらなかった。数日前に感じていた心のざわつきは、もうない。

いつもなら、とりあえず机に向かってパソコンを起動させるところだが、すっかり片付けてしまって、どこのダンボールに眠っているかもわからない。ぼんやりしたまま朝食を食べた。ずるずると麺をすすりながら、どこへ行こうか、という言葉が浮かんだ。どこにも行くつもりはないのに。

隣の部屋でテレビの音が聞こえる。聞き覚えのある声だった。父が、昨日見ていたドラマだ。マリオというアンドロイドと、至という少年の話だった。録画してあったものをもう一度見ているようだ。マリオには欲望がないから人間としてつまらないと言われている場面だ。

父は上機嫌に、ここが良いんだとか、奥が深いとかそんなことを言っている。しかし、母は興味がないようだ。素っ気なく返事をしている。やがて部屋を去る足音が聞こえた。すぐにテレビの音声が将棋番組に変わった。なるほど、一人では意味がないという事だ。父はドラマをもう一度見たかったのではなく、誰かと分かち合いたかったのだろう。

食後も皆が横になる。家全体が無気力な感じだ。結局各々が昼寝をして過ごした。物語性のない日常だ。若さがない。誰かと分かち合いたいと思える喜びもない。日が暮れて質素な夕食をとり、それぞれがベッドや布団に帰っていく。この暮らしが果てしなく続いていくような気がして、寒気がした。

4/8/2019 12:25:21 AM

断捨離と疲弊

 退職を期に、家を引き払うことが決まった。引越し先は今の家よりもずっと手狭なアパートだ。部屋数も間取りも大幅に小さくなる。両親を巻き込んで、かつてないほどの大掃除が始まった。

 容量を超えて詰め込んだために、ひずんでいる本棚。引き出しが重たくなるほどぎっしりと詰まった学習机。入居以来、荷解きされていないダンボール箱。長年目を向けずにいたものたちだ。それらの内容物を抜き取って、処分することにした。ほとんど埃をかぶっているから、マスクと軍手を身につけて仕事に取り掛かった。

 思わず目を細めてしまうような、懐かしい品々が次から次へと飛び出してくる。何度も読み返してぼろぼろになった漫画。きまぐれに買ったキャラグッズ。落書きの詰まったノート。壊れた卒業記念のオルゴール。目に留まるものたちを、振り切るようにして処分した。理由はいたって単純だ。場所をとるから。壊れているから。合理的だ。

 もちろん、自分が慣れ親しんできたものを捨てるのには抵抗がある。けれど、どんな歴史を経ていたとしても、大切なものは物自身ではない。自分の中にあるはずだ。もし形を失っても、経験や記憶として残るだろう。そう割り切った。そうしているうちに、奇妙な高揚感に包まれた。どんどん捨てる。捗る。しかしそれは一過性のものにすぎなかった。毎日のように思い出のあるものを捨てていくのは心に負担をかける。捨てて、捨てて、また捨てて。残るものはわずかだ。「これは記憶に刻み込んだ。よし捨てるぞ」という別れの手順を踏むことなく、ただ手なりにゴミ袋に放り込む。淡々と過去を消しているようだった。末期の身辺整理にも似ている。

 歴史をさかのぼっていくうちに、幼稚園のアルバムが姿を表した。表紙の絵はあまりに拙く、何が描かれているのかわからない。しかし、それを描いたのは自分だということを直感した。一片の記憶も残っていないのに、そう確信した。役に立たない。覚えていない。再び開くこともないだろう。合理的に考えるなら、ゴミ袋に入るべきものだ。けれど、手は止まった。二度と作ることができないと感じたからだ。そして、自分にとって必要ではなくとも、両親にとっては特別なものであろうことが想像できたからだ。

 はっとして血の気が引いた。このアルバムと同じように、捨てるべきでないものを処分してしまったかもしれない。その可能性を否定できなかった。疲労を理由に、自分の半身というべきもの、歴史を作ってきたものを失ったかもしれない。その罪深さを恐れ、また悲しい気持ちになった。大切なものが、焼却場へ運ばれているかもしれない。

 きっと本当は、こうした品々が沈み固まる前に、少しずつ解いていかなければならなかったのだろう。どうしてそれができなかったのか。振り返るに、捨てるという文化が、自分の家庭にはなかったように思う。使わなくても、壊れていても、物置に押し込んでばかりだった。判断の保留。その積み重ねが今この身に降り掛かっている。

 あらかた物を捨ててしまった部屋は、荒涼としていた。がらんどうで、今使うものだけがほそぼそと寄り添っている。虚無にほど近い。しかし、寂しさに浸る暇もなく、静かに退去日は近づいている。

3/17/2019 12:09:15 AM

退職

 辞めることは少し前から心に決めていたのに、それを宣言しようとするたび、喉が詰まったように言葉が出なくなった。季節が変わって、新しい仕事が始まろうとしている。何も言えないまま、キックオフ会議に参加してしまった。この後ろめたさ。すべてが明るみに出た時、どんな顔されるのか想像するとやり切れない気持ちになる。呆れと失望。そういう感情を向けられるのが恐ろしかった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。隙を見て、小休止している先輩たちに、そっと告白した。困惑した様子だったけれど、ふたりともすぐに「仕方ないね。頑張ってね」と言った。

 そのことが上長に伝わって、個人面談が行われた。辞める理由について話をしたが、まとまりきらない長話になってしまった。今でもそれを上手く説明できない。今思いつく中で、最もわかりやすい表現をするなら「自分はもっと凄い仕事ができると思ったけれど、会社はそういう仕事を与えてくれなかった」ということになるだろうか。いや、やはり一言で表せるものではない。もっと拗れて、行き場のない不和があった。

 数日後、いつものように仕事をしていると社長に個室へと呼び出された。面談というよりも通達のようなものだった。今このとき退職することの愚かさを指摘された。そして社長は断言した。「君は、失敗するだろう」なんとか体が震えないように堪えたが、一切の反論はできなかった。社長が去った後も、言葉は残った。

 翌日、メールを書いた。心は恨みがましく濁っているのに、良い子を演じる。自分を貶めて、社長の顔を立てるような文章を書いた。そういう体裁を気にするところが、とてつもなく愚かだ。建前だけで生きている。空虚。率直に「辞めたいからやめます、ごめんね。もうあなたとは関わりたくありません」とだけ書いたほうが楽なのに、長々と言い訳を書いた。返信もまた長文だった。これからの可能性について、まだ一緒にできることがあるという社長からのメッセージだった。大人は複雑すぎる。心の宿らない、しかし丁寧な返事を書いた。そうして、退職願いは受理された。

 それからの日々はほとんど覚えていない。ただ一人でがむしゃらにプログラミングした。上長の配慮で、そういう仕事をもらったので、ほとんど誰とも関わらずにずっとコードを書いた。ひとりでいる時間は静かだ。未来を憂いることもない。そういえば、初めはそうだったなと思う。日が暮れるまで、与えられた課題をこなしていた。文字通り夢中で、何も考えずに。そうして、空っぽの頭で明日を迎えることができた。

 すぐに最終出社日になった。いままで関わってくれた人たちに挨拶回りをした。皆、穏やかだった。笑って送り出してくれた。「お世話になりました」と言うと「お世話していないよ」と苦笑いする。自分は、深い考えもなしに、この人達と歩むことを止めてしまった。この縁を、手放してよかったのだろうか。わからなかった。すべてが終わった後、誰もいないベンチに腰掛けた。晴天。祝いの花の香り。どんな学校よりも長い期間、ひとつの職場で働いていたんだ、と気づいて寂しくなった。

2/24/2019 1:39:20 PM

呪い

 「聖☆おにいさん」のアニメ映画を見た。内容はごく普通で、これといって語ることもない。漫画をよく再現しているなとは思うけれど、退屈して半分くらい観たところで閉じてしまった。

 映画の中で、ブッダの額にあるのは長い毛を巻いたものだという描写があった。額から毛が生えるなんてことがあるのだろうか。なんだか怖いなと思って調べた。それは白毫(びゃくごう、またはびゃくもん)といってブッダの特徴の一つだそうだ。彼には、そういう特徴が32個もあるらしい。だから、当時の人はすぐブッダを見つけることができたそうだ。なるほどたしかに、現代でもそんな人がいたらすぐ噂になるだろう。

 白毫は単純な毛である、という説のほかに、第三の目だという説もあるらしい。瞑想で額に意識を集中することが多いから、そこにチャクラが溜まって…みたいな話。そのほうが、ファンタジー感あって良いと思う。巻き毛が生えてるよりは。

 ついでに出てきたブッダのエピソードを読んでみた。ある僧侶の話。貧しい男がやってきて施しを求めてくる。けれど僧侶は手持ちがなかったため断った。すると腹いせに「お前の頭なんて七日後に裂けてしまえ」と呪いをかけられてしまった。苦しんだ僧侶はブッダの噂を聞き彼に助けを求める。

 ブッダは僧侶に向かって「頭が裂ける呪いなどというものはなく、むしろそれはあなたが悟りを開くという予言だ」と言い聞かせたらしい。頭が裂けるということはすなわち、煩悩にとらわれている頭が裂けるということ。悪いことではない。呪いなんてものはなく、ただの悪口だというわけだ。

 さて、ただの悪口と言ってしまったけれど、現実に悪意のある言葉を投げかけられると、深い傷を負うことがある。それは呪いのように心に突き刺さり、いつまでもつきまとう。事あるごとに頭の中をよぎり、判断を鈍らせる。そういうものを呪いと呼ばず、なんと呼ぶだろう。深く刺さった呪いを、自分一人で抜き取ることは難しい。だから、ブッダが必要なのだと思う。

1/26/2019 6:31:25 PM

年末の逡巡

 何かが擦れるような異音を立てながら、エアコンが温風を吐き出している。新年まであと一時間。大晦日まで寝てばかりだったおかげで、風邪は回復してきたようだ。鼻通りは悪いし、喉の違和感もあるけれど、眠くはない。スピーカーに電源を入れて、最近買った音楽を流す。気持ちを前向きにして、今年を締める日記を書こう。

 今月は、12月1日から25日にかけて、アドベントカレンダーに挑戦した。結果は四日間の手落ち。やりとげる自信はあったのに、虚しく打ち砕かれた。思った以上に、自分の中にあるものは少なかったみたいだ。記事にできなかった話題の残骸がノートに散らばっている。完全になんの主張も結論もない日記を投稿したのも、この数年で久しぶりだ。薄まっていく感覚が自分の中でとても悔しかった。日頃からもっと文章を書くべきだと感じた。

 風邪にうなされながらも小説を書いてみようと思って、ここ数日、白紙のページにいくらかの文字を書き込んだ。深い森で暮らす人の話だ。彼らを巡る出来事の一端を思い描いていた。けれど、筆が進まない。深い森にある植物はなんだ。その空気、匂いはなんだ。どのようにして糧を得ているのか。あまりにも表面的、断片的なことしか書けない。ひとつだけ掘り下げたとしても、その詳細さがいかにも人為的で作りものであることの証明になってしまう。書いているうちに、自分でその描写を信じることができなくなる。

 まるで自作の壺を叩き割る陶芸家みたいなことを言っている。森の描写など無視して、出来事だけさっさと書いてしまえばいいのだが、一文書くたびに「やはりなにか違うのでは」と足をとめてしまう。そんな風だから、全く進まない。そして気力が持たずに投げ出してしまう。こういう体験は一体何度めかわからない。

 森について多くを述べないまま話を進めるか。だとすると、森である必要はないのではないか。そういう風に、スタート地点がぐらつき始める。深い森で生きる人々のことは諦めて、掃除のおざなりな部屋でゲームに熱中している冴えない男の話とか、そんなものを書いてみればいいのだろうか。いや、それは書きたいという気持ちにならないので、本末転倒だ。

 しかしけれど、あとから補強するつもりで、穴のある作品を書いてみるのも悪くはない気がする。つまりは、森がどのような情景を持っているかは、あとで必要と感じたら書き足してみる。そんな考え方でいいから、もう少し話を書いてみよう。まずは、描きたい場面を思うさま楽しんで、そのあとに結論をだすことにしよう。

12/31/2018 11:59:00 PM

欲望をぶちまけていいのか?

 世間はクリスマス。自分には何もイベントはない。ツイッターで公開されたとある漫画を見て、ふと疑問に思った。自分の配偶者(私にはそんなものはいないが)に欲望を最大限にぶつけてもいいのだろうか?

 たとえば、あなたは密かに赤ちゃんプレイを望んでいるとしよう。おむつやおしゃぶりをつけて幼児退行してひたすら甘えることができたら…と夢見ている。心のどこかで、全力で甘えられる瞬間はないものか、そう感じながら日常をおくっている。もし同意できないなら、赤ちゃんプレイではなくて、SMプレイでもなんでもいい。ともかく何かの欲望を持っているとしよう。

 これをクリスマスの夜に開放してしまったらどうなるか。パートナーは快く受け入れてくれるかもしれない。嫌々ながらもつきあってくれるかもしれない。あるいは強く拒絶するかもしれない。どうなるかはわからないが、いずれにしても、あなたは、普段やらなくていいことをパートナーに要求して負担をかけたということになるだろう。場合によっては漫画に出てくる女性のように、裏では強い不満をいだいているかもしれない。甘えられる女性という役割を押し付けられて深く傷ついているかもしれない。

 そう考えると、たとえいかなる欲望を持っていたとしても軽々にそれを求めるべきではない、という結論に至る。

 しかしその一方で、自分の性癖や欲望をひた隠しにして生きていくのは辛いのではないか、とも思える。パートナーを困惑させないためとはいえ、その後ろ暗さを抱えて墓まで持っていけるのだろうか。結婚すると決めたなら、その性癖もまた二人で背負って行くべきなのではないか。そんな意見も自分の中に立ち上がってくる。はたしてどうするのが正解なのだろう。

12/25/2018 9:43:59 PM

ゆるりと哲学史を聞く

 先輩を訪ねていろいろと話を聞いた。まずはギリシャ哲学の話。最初はソクラテスが、色々なことを否定して回っていたそうだ。私達は正しいことを何も知らない。そういう無知の知を説いた。けれど、そのことは国家の批判につながってしまったり、統治に悪い影響があるとみなされ、最後には処刑されてしまった。それでも無知の知を、言い続けたというから、かなり強い信念を持った人だったらしい。(肉体的にも強かったとか)

 ソクラテスは色々なことを論理的に否定するけれど、では何が正しいのかということに言及した記録は残っていないらしい。そこで出てくるのがプラトン。彼はイデア論を生み出したそうだ。イデア論というのは概念と実態を区別した考え方だ。人が異なる「もの」に対して、共通の認識を持つことができるのは、その「もの」を定義したイデア界を参照しているからなのだという。ちょうど、オブジェクト指向プログラミングで言うところのクラスとインスタンスの関係に似ている。(この説明は間違っているかもしれない)

 プラトンの後はアリストテレスが続いた。彼は、哲学を含む様々の学問を体系化し分野を作った。それまで、色々なことが発見されてきたけれども、学ぶうえでの道のりは不確かなままだった。そこでアリストテレスは大学を作って、弟子たちと学問を広めたのだそうだ。ただ、その後は宗教による抑圧があったために、哲学を含む学問、科学が発展できない状態が続く。

 そのころ世界はどうなっていたのか、という話になっていくらかの歴史についても聞いた。これまで話してきたギリシャ哲学は紀元前200年ごろの話で、その頃ギリシャ都市国家ばかりだったそうだ。国というほどのものではなく、都市単位で争ったり、協調したりしていたらしい。

 それを滅ぼしたのがローマ帝国。彼らは、軍事に長けていて色々な国を飲み込んで統治した。帝国というのは、侵略によってのみ経済成長すると信じていたらしい。そこでは科学や文化のための投資はなされない。しかも、宗教という決まりきったルールがあったために、哲学は冬の時代を迎える。

 ローマによる統治は紀元後400年ごろまで続いた。けれどその後は、内部分裂などが起こり延々と戦争が続く。そして1400年ごろにローマは滅びた。分裂して独立した国々は、なおも争いを続けていたが、1500年ごろ大航海時代と呼ばれる時代が訪れる。各国は我先にと植民地化を進めて、新しい土地、動植物、財宝などを奪い合った。

 それにより豊かになったが、人々は世界には知らないことがあるのだということを実感し始めた。コロンブスの新大陸発見もあって、宗教によって縛られずに科学をできるような風潮ができてきた。さらに、投資をして経済を成長させるという考え方も生まれ始める。

 そうして起きた科学革命の中にデカルトもいる。デカルトギリシャ哲学のあと、ようやく哲学の新しい考え方を持ち込んだ。それは「我思う故に我あり」という言葉に表される。彼は数学者でもあって、その哲学は論理的に進められているらしいので、読んでみるといいかもしれない。でもやたら難しいらしい。(内容については触れなかった)

 というところでいい時間になったので、話を終えた。そのあとは漠然とした不安について、あるいは目先の問題について少し意見を聞いたあと、家路についた。

12/23/2018 10:27:13 PM

スマブラ性格診断

 久しぶりにスマブラの新作を遊んでいる。昔遊んでいた頃のことを思い出して、当時の知人友人がどんなキャラを使っていて、どんな性格だったか思い浮かべてみた。本当は最新のスマブラSPでやってみたいけどキャラ多すぎて全然把握できてないので、初代(ニンテンドー64スマッシュブラザーズ)のことだけ書いた。

  • マリオ:計算ドリルとか漢字ドリルとかが好き。真面目にやる。努力するのが好き。
  • カービィ:高水準のものが好き。ソニーとか有名なメーカーにこだわってる。
  • ドンキー:豪快で派手好き。こだわりを持っていて、勝敗よりも特定の技を当てるとか勝手に縛りプレイしてる。
  • サムス:ドンキーと似てこだわりが強い。ただドンキーよりも世渡り上手で人当たりも緩やか。
  • フォックス:慎重。逃げたり様子見が多いけれど、勝つための行動をする。結果そこそこ勝ちも拾う。
  • ファルコン:せわしない。無理矢理でもテンションを上げている。負けても勝っても楽しんでるので憎まれない。
  • ピカチュウ:可愛いもの好き。スマートに勝つことを重視する。普段は闘志は見せないけれど、勝負すると全力で勝ちに来る。
  • ネス:一見平凡な印象だけれども、かなりのゲーマー。たぶん裏で努力している。
  • リンク:かわりもの。じっくり緻密な戦いをする。いろんなことを器用にこなす。
  • ヨッシー:いろいろ楽しいことが起こるのがゲームで、勝負するのがゲームとは思ってない。生き物が好き。他の人と違うことをしたい。
  • プリン:ゲームはあくまで遊び。本気で入れ込むのは無いと思ってる。でも、負けるのは嫌なので練習はする。
  • ルイージ:きまぐれ。とにかくファイアー昇竜拳を当てて気持ちよくなりたい。それで負けてもしかないと思っている。

 実際はよく遊んだメンバーは4人なので、複数キャラを使ってる人は複数の性格をあわせ持っているイメージ。自分の中では「あの人はあんなふうだったなあ」と懐かしい気持ちに慣れて楽しかったけれど、記事としてはいまいちだったかもしれない。そういえば一緒にたくさん遊んだ人のことを思い出すと、その人のいろんな性格が妙にいとおしく思えるというか、不思議と安らいだ気持ちになる。創作のときのキャラ作りとかに役立つかもしれない。「実はこの人がモデル」とかってなると相当恥ずかしいけれども。

12/22/2018 1:10:30 AM

じいちゃんになってもたぶんゲームしてるだろう

 またゲームを減らす。今度は、プリンセスコネクトのプリンセスアリーナとダンジョンはやらないことに決めた。そこそこ報酬は良いが、時間がかかる割におもしろくないからだ。ギルドという仕組みがあって、その仲間に差をつけられるのが嫌だったけれど、諦めることにした。プレイ時間が減って、風呂に入る時間が伸びた。

 ウメハラが新バージョンのリュウを使っている実況動画を見た。そこそこ強くなっているらしくて、あーだこーだ言いながら、楽しそうにプレイしている。ゲージMAXなら体力を半分以上持っていくワンボタン当身。すぐ出せるし夢がある(裏を返すと、やられる側はそうとう鬱陶しい)。今スト5はやらないけれど、スマブラのやる気がちょっと出てきた。勝つために研究して、それを練習して、実践する。久々に、そういう修行みたいなことをやりたい。

 関連して負けをどうケアするか、乗り越えていくか、って話を書こうと思ったけど、少し進めたところで筆が止まってしまった。というのは、そこで考えることが、またウメハラの話になるような気がしたからだ。既に知っていることをもう一度焼き直すだけなら、あまり楽しくない。だから今は書かないことにしよう。

 人生のお供として「ゲーム」はありなのかなという疑問を考える。最近のソシャゲは何年もサービスが継続するので、なかなか卒業する機会がない。そのままずるずると続いていくと、ゲーム老人というのが増えるかもしれない。ただひとつのゲームを延々とやり続けるという生き方は、楽しいのか。いつまでもスト2やFF6を遊んでいる人もいるけれど、自分がそうなれる自信はない。

 そういえばそもそも、三十歳になってもゲームをやっているとは考えていなかった。よくわからないけれど、何か大人っぽいものになっているのだと想像していた。実際は、何一つ成長せずにゲームを続けている。変わったのはタイトルだけだ。だから実は六十歳になってもゲームをしているかもしれないし、九十歳になっても変わらないかもしれない。将棋みたいなものと比べると、ゲームはずいぶん派手だから、年寄りにはふさわしくないような気がする。でも、派手な服を着こなしている年寄りも悪くない気がするから、恥ずかしがらず生きていきたい。

 付け加えておくと、もちろん、文章を書くこともやめるつもりはない。

12/20/2018 12:56:07 AM

Yes/No で答える能力

 昔、後輩に仕事を教えていたときのことを思い出した。とても反省していることがある。それは、何でもかんでも改善しろと指摘したことだ。少しでも目につくことがあれば小言を言っていた。特によく言ったのは「それは僕の知りたいことじゃない」というセリフだ。

 たとえば、毎日の進捗報告で「頼んだ仕事はできましたか?」と尋ねる。その時、後輩は「○○がわからなくて、調べていました。△△というライブラリを使えばそれができそうだと思ったので、それを使おうとしています」みたいに答える。僕はそういうときに「それは僕の知りたいことじゃないです」と突き放した。もっと言うなら「頼んだ仕事、できてませんよね?」とわざわざ屈辱を与えるような聞き方をした。

 その時、言いたかったことは「最初の質問に Yes か No で答えてくれ。問に対して的確に答える癖をつけてくれ」ということだ。それなのに、棘のある言い方をしてしまったのは本当に反省している。「手順を踏んで話すということを身に着けてないことを恥じなさい。猛省して努力しなさい」とでも考えていたのだと思う。今考えると、何様のつもりだという気になる。

 僕はワガママなことに、当時「正しければどんなことでも言ってよいし、言うべきである」という考え方を抱いていた。レジスタンスのように、正しくないことを批判するのは格好良いと思っていた。自分では、信念をもって動いているつもりだったが、傍から見れば、空気を読まない迷惑な男だったろう。

 当時僕は「Yes か No で答えるということは初歩的なことであり、仕事をする上で必須の能力だ」と思っていた。けれど、実際にはそんなことはない。自分の両親はふたりとも、質問に対して Yes か No で答える能力は持っていないし、仕事のできる人でもそれができない人はいる。そう、Yes か No で答えるという能力は、初歩的でもないし、仕事をする上で必須の能力でもなかったのだ。

 Yes か No で答える能力があれば、スムーズに議論が進む。なければどうなるか。議論は少し混乱しながら進む。けれど、質問者が問いかけを増やせばカバーできる。たとえば上に書いた後輩との会話では「念の為一度確認しておきたいんですが、頼んだ仕事はまだ途中で終わっていないということですよね?」と確認をすればよかった。

 そもそも初歩的かどうか、仕事をする上で必須かどうか、ということを差し置いても、できていないことを詰る必要はなかった。「実は Yes/No で答える能力というのがあって、これがあると一目置かれる人になれるよ」と教えてあげるだけでよかった。そう思って反省している。

12/19/2018 12:08:21 AM

ポーカーあるいは麻雀のように

 受け入れることのできる容量が決まっていて、そこに何かを詰め込まなければいけない問題を考える時、それをポーカー(あるいは麻雀)に例えてみると面白いのでは、と思った。たとえば、プログラマのスキルセットを考える。今の自分は下記の五枚のカードを持っている。

 上の3つで「Web プログラマ」という役ができていて、まあ食っていけるくらいの収入になる。ここに「デザイン」とか「マネジメント」とかの手札を持ってくると「Webディレクター」みたいなもっと強い役になる。今なら「機械学習」とか「ブロックチェーン」というのが流行っていて強いカードなのかもしれないが、このままではスキルのシナジーがあまりないので、良い役が作れない。

 良い役を作るには、手札を捨てていかなければならない。「ブロックチェーン」手札を活かす役をつくるなら、クズ手札を「C言語」とか「英語」とかに組み替えてみるといいかもしれない。機械学習についてはよく知らないけれど「Python」「アルゴリズム」「数学」とかと組み合わせると良い役になりそうだ。

 新しいスキルを手に入れるうえで、何もスキルを捨てる必要はないじゃないか、と思うかもしれない。確かに、このポーカーは現実に即していないが、全く配慮なしというわけでもない。仕事で使えるくらいのスキルの鮮度を保つとしたら、だいたい5個くらいだろう、という感覚を表している。

 同じようにして今遊んでいるゲームアプリについても同じようなことを考えた。

 これを捨てて「物書き」みたいな手札を仕入れようとしている。さて、どれを捨てるべきだろう。そういうふうに例えてはみたものの、それぞれに割いている時間は全然違っている。だから、ポーカーはうまく問題を表現できていない。そこでカード1枚で30分というふうに考えてみよう。そうするともう少しわかりやすくなる。体感だと下のような感じ。

 麻雀みたくなってきた。上の六枚はペアになっているので1時間くらい。下の二枚は30分くらい。ゲームの時間をへらすなら、それぞれ一枚ずつ残るように捨てるか、あるいは下の二枚を捨てるか。実はここには見えない手札「仕事」が詰まっていて、それを捨てれば新しいものが入るようになる。

12/18/2018 12:39:12 AM

ゲームアプリを減らすなど

 出かけなくてはいけなかったので、昼頃に風呂に入った。新しい話を書こうと思って、じっと考えていると、すぐに時間が過ぎる。手足がふやけるくらい浸かっていた。異世界転生ものについて、死んでから転生するまでの話を考えたので、次はそれを書いてどこかに投稿してみようと思う。

 その後散髪に行ってきた。仕切りの隣から話し声が聞こえてくる。店員と客は知り合い同士で、スノーボードについて会話しているようだ。一方が「朝のうちにリフトの一日券を買って十分滑ったら、昼頃にそこに来た人に売って帰ると節約できる」という軽犯罪になりそうなテクニックを自慢げに話していた。あとはメルカリでブーツを買ったとかそんな話だ。なんか怖いので視線が合わないようにしよう、と思った。こういうふうに線を引くから人と仲良くなれないのかもしれない。

 あとは日課のゲームアプリをこなして、合間にスマブラをしているとあっという間に一日が終わってしまった。その上、崩壊3rd をインストールしてみようかとかなり迷ったが、やめた。チェンクロのレイドイベントが始まっているため、油断できない。残り8日間。今LV200のうち50まで済ませたから一日20くらい済ませるつもりでいよう。とある魔術の禁書目録のコラボだけれど、残念ながら一度も見たことがないし、見る余裕が無いのでかなり控えめにやる。

 ドラガリアロストのメインテーマを歌っているDAOKOのアルバムを買ってみた。知っている二曲はいいな、と思ったけれど、初めて聞く曲は特に何も感じなかった。鈍感過ぎて情けない限り。

 ロマサガは順調だけどもう飽き始めている。ストーリーがつまらないので、もうやめてもいいかもしれない。こうして日記に書き込んで、自分がそれを楽しんでいないことに気がついたのでアンインストールした。ありがとうロマサガ。さようなら。ついでに、時間をもりもり食べていくダンジョンメーカーも削除した。これで明日は少し健やかに生活できるだろう。

12/17/2018 12:15:23 AM

悲しいときどうするか

 嬉しいことはともかく、本当に悲しいことは、誰にも言わないようにしている。たとえば、親しい人が命を落としたときが、そうだ。そのことを話しても、誰も自分の悲しみを癒やすことはできないし、周りの空気が重くなる。なにより、死んだ人は戻ってこない。だいたい、本当に悲しいことは、どうしようもないことなので相談しようがないのだ。

 それに、有名人が亡くなった時に流れるニュースも嫌いだ。さして親しくもないし、関わりもなかった人たちが、追悼のメッセージを送る。生前の言葉や映像を引っ張り出してきて放映する。葬儀の様子をテレビで流したりする。そんなことをして意味があるのか疑問だ。誰のためなのだろう。死んだ人の為ではないだろう。その人の周りにいる悲しんでいる人たちはそれを望んでいるのだろうか。悲しいできごとを利用して注目を集めているだけのような気がする。

 本当の悲しみを自分が持ってないのかもしれない、と思って不安になる。どんなに悲しくても、面白いことがあれば笑ってしまうからだ。どんなに悲しくても、美味しいものを食べたら嬉しくなるし、だんだん心が上向きになる。そういう、情の薄さが怖い。昨日は悲しいと言っていたくせに、今日はケロリとしているじゃないか、とそんな風に思われそうで、悲しめない。

 本当に悲しいときはどうしたらいいのだろう。短い時間考えただけでは、答えは得られなかった。

12/16/2018 12:28:17 AM

仲間を求めて

 何かを生み出すには狂気が必要だ、という結論に満足して昨日はぐっすり眠れた。しかし、夜が明けて早速、自分に疑いの目を向け始めた。これまで、自分に狂気が足りなかっただろうか。変態ではなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。いくらかは既に、変態だったはずだ。もしかすると、変態であるだけでは足りないのではないだろうか。

 僕は、何かに向き合おうと考えるときほど心の内側へ、より内側へと探りをいれる。じっと暗闇を見つめて、そこにあるものが何であるかを探し歩く。それは、深海に一人、宝を探して素潜りしているようなものだ。滅多なことでは宝は見つからない。見つかったとしても鍵がかかっている。試行錯誤の末に、ようやく宝箱が開く。よくやく開いた箱から視線を切ると、あたりには深い闇が広がっている。

 ちょっと大げさだったかもしれない。ともかく、そういうイメージだ。そしてそれはとても効率が悪い。終わりなくそれを続けることを望んでいるなら、そのままでもいいかもしれない。でも、いつまでも今のままでいたいとは思わない。もっとすごいことを探すために、やり方を変えるべき時が近づいているのかもしれない。

 いや、何もこの記事を書くための話に限ったことではない。「もの書きを生業にしたいなら、どうするか?」という話でも同じことが言える。もっと良いアイデアを、もっと良い文章で、もっと手早く、作るにはどうしたらいいのか。いくつかの本を読んで勉強したことはある。けれど試してないこともある。それは、仲間を探し集めることだ。

 ごく当たり前のことだけれど、そういう事に思い至らなかった。なぜなら、どうせ無理だと思っていたからだ。多くの人は、深海の宝を面白がるけれど、自分で探そうとはしないだろう。勝手にそう考え諦めていた。けれど実際に「宝を探しに行かないか?」と誘ったことはなかった。そういうことかもしれない。あるいは、既に先を行く人を訪ねてもいいかもしれない。自分から動くべきときなのかもしれない。

12/13/2018 11:20:30 PM

ちょうどいい狂気

 毎日こうして何かを書いていると、ろくでもないことしか思いつかなくなってくる。最初は「毎日三十分で終わらせて、スマートに生活してやるぜ」などと根拠のない自信を持っていたが、あっさり打ち砕かれた。何を書いてもつまらない文章がだらだら続くだけになってしまう。だんだん気弱になって「こんな不毛なことはやめてしまったほうが、いっその事気が楽なのに」と度々そう考える。けれど、同時にこの苦しみを楽しみに変えるような変態さが必要なのではないだろうか、とも考える。

 「変態」というと、露出狂とかそういう迷惑な趣味を持つ人を指す人を思い浮かべるかもしれない。しかし、決して悪い意味とは限らない。たとえば「あの人は変態的にプログラミングができる」という表現は、少しひねった言い方ではあるが、その人が優秀なプログラマであることを意味している。ちょっと古いけれど「釣りキチ」とか「空手バカ」とかいう言い方がある。これらは「その人が群を抜いて(異常と感じられるほど)ある分野に関心を抱いている」ということを表している。

 そういう変態になりたい、と思う。今ここでくじけて、文章を書くのをやめたら、ただの一般人に過ぎない。何かを生み出すことなく埋もれていくだろうし、別にそれが普通だと感じるだろう。でも、それに納得しないくらいの異常さを自分の中から引き出したい。妄執でも何でもいいので、何かを継続して成果と自信を手に入れたい。求めすぎるあまり、壊れてしまうかもしれない。でも、スポーツと違って、文章を書くことは身体を痛めない。だから、苦しみながらでも書いていけるだろう。

 普通のままでは、たぶんもう取り返せない年齢になっている。だからそれはもう狂ったように前を見なければならない。しかしけれど、本当に狂ってしまうのは恐ろしい。無謀な借金をしたり、人を傷つけたり、すべてを顧みないような生き方をするつもりはない。ちょうどいい狂気を目指そう。破滅を歩まないように、緩やかに。けれど常道からは踏み外して。

12/12/2018 9:59:32 PM

どうにか新社会人編

まいど。

 就職したての頃は、とにかくびくびくしていたと思う。ここで失敗したら、人間失格の烙印を押されてしまうのだと思って、とにかく慎重にやろうと決めていた。プログラミングに関する業務はぼちぼちうまく行ったが、それ以外の雑用が大変だった。朝礼の司会、電話対応、弁当の注文、行事の後片付けや前準備、それから幹事。

 はじめは何をしても膝が震えるし、手も震える、声も震える。そういう自分の傾向を知っていたので、予め一人でぶつぶつと朝礼の練習をしたり、電話の練習をしたりした。そんなふうにシミュレーションしている姿はわりと間抜けだったかもしれないが、そのかいあって、大きなミスなくこなすことができた。

 とはいえ、練習できないこともある。それは何かというと、飲み会の幹事だ。さっぱりわからない。相談できる友達もいない。ググったりしてみるがよくわからないし、意識高い系のサイトが多くて妙に腹が立つ。とてつもなく情けない気持ちになってくる。「一体俺は何をしているんだ…」仕方がないので、一番優しそうな先輩に尋ねてみた。その時のことはよく覚えている。

 僕はかなり長い前置きをした。だいたいこんな感じだったと思う「本当に仕事とは関係なくて、こんなことを聞くのは場違いかもしれず、本当に情けない話で申し訳ないんですけども…幹事ってどうすればいいんですか?」その場にいた皆が笑った。そして「それは誰にでも聞いていいし、誰でも答えてくれるはずだから…」と教えてくれた。

 それであっさり解決すればよかったのだけれど、飲み会というのは自分にとって魔境だ。先輩に店を選んでもらうところまではこぎつけたが、そこからどうするのかは指南されなかった。ぶっつけ本番に挑んでみたところ、まず注文の仕方がわからない。いや、正確にはわかるが、どれを頼めばいいかわからない。メニューが多すぎる。今なら、とりあえず刺身盛りとか串盛りみたいな、いろいろ食べれるやつを選べばいいとか、なんとなくわかるけどとにかく当時はよくわからなかった。だからよくわからない感じでランダムに頼んだら料理が足りなくて困った。あとざわざわしすぎて声が通らないとか。いろいろとにかく疲れた。

 その後もさらにいろいろな謎の作法があることを知った。注文とりやすいように席は入り口に近い方に座るとか。グラスが空きそうな人に声をかけて次の飲み物を聞いておくとか。空になった皿は片付けやすいように集めておくとか。そういう気配りが存在することを知って目眩がした。やりたくない。できそうもない。本当に、飲み屋についてはいろいろ文句を言いたい。もっとわかりやすくしろといいたい。生ビールの「生」という無意味な言葉を消せ。水割りとかロックとか説明しろ。メニュー見やすくしろ。謎のレイアウトやめろ。単品は別の冊子にしろ。とかね。

 幹事は何回かやったけど、どれもしんどかった。ピザを頼むのですらしんどかった。皆野菜を食べるのか? サイズはどれくらいだ? とかそんなことで悩んだりとか。頼んだのに届かなくてイライラしたりとか。適当にビール注文してたらキリン淡麗生買ってこいとか言われたりとか。とにかくよくわからないことだらけだ。今になって思うと、全部どうでもいい。

 あとは忘年会もやった。そのときは出し物を要求されたのでこれも悩んだ。同期は僕と同じくらい社会に慣れてなくて頭の回らないメンバーだったので、僕がひたすらググった。そして一番無難そうでお金もかからない、ジェスチャーゲームにした。やっつけでうまくいくはずがないと思ったので、司会原稿を作ってひとりでシミュレーションした。今思うとバカバカしい。

 他にもいろいろあったはずだけど、半分くらい幹事についての愚痴になってしまった。僕は必死にそれを仕事として取り組んだけれど、楽しみながらそれをこなせる人もいるだろう。本当に感服する。と同時に、そのような方々にはぜひ、進んで自ら幹事を行ってほしい。そう祈る。

12/11/2018 11:53:52 PM

海月水族館へ

 悲しいことがあると知らず知らずのうちに海月水族館へ足が向く。人工海岸を歩いた先にある、そのちっぽけな建物には、ほとんど何もないけれど、名前の通り海月だけはいる。

「よくきたね。外は寒かっただろう」

 重たい扉を開けると、それこそ海月のような髭をたくわえた毛むくじゃらの館長が出迎えた。私は軽い会釈で答える。私が喋らない人間だと知っている館長は、静かに穏やかに頷いた。わずかばかりの入館料を支払うと、そっと使い捨ての懐炉を譲ってくれた。

「暖房をかけるお金がないのでね」

 そう言って、いたずらっぽく微笑んだ。私は感謝の言葉を伝えて、その場を離れた。

 館内は、あまりにも閑散としていた。誰一人としてすれ違うことはない。いつものことだが、学芸員も飼育員も見当たらなかった。すぐに幅二メートルほどの水槽に行き当たる。大きな水槽に似つかわしくない、小さなミズクラゲがただ七匹そこにいた。乳白色の柔らかそうな身体に、か細いレースの糸を垂らしながら優雅に泳いでいる。蛍光灯に照らされ光を透かすその姿は、とても神聖なものに見えた。

 水を循環させるエアレーションの低音だけが静かに流れていく。暗いベンチに腰掛けて、私は背景の一部になった。

 脳を持たないこの生物は、何を考えて生きているのだろう。彼らには天も地もない。ただ流れに身を任せている。七匹は無関係にすれ違い、無秩序に漂っている。そう、それを眺めていると、くだらないことで悩むのは止そうと思えるのだ。だが、その経験則は虚しく打ち破られた。心のざわめきが止まらない。ただただ胸が苦しい。七匹がなんの言葉もかけてくれないことを恨めしく思うほど、自分のことしか考えられない。

 気がつくと指先が凍るように冷え切っている。息を吐きかけたぐらいでは、気休めにしかならなかった。なるほど、たしかに冷える。ポケットに手を突っ込むと、暖かくなっていた懐炉に指先が触れた。私はそれを、そっと握りしめた。じわりと熱が伝わってくる。そうだ。なんの支えもない人間は、こうして、ささやかなものに頼らなければならないのだ。

12/9/2018 9:00:51 PM

父は戦争に行った

 父は魚市場に勤めている筋肉質な男だった。よく二の腕の筋肉を見せつけ、僕らに向かってぶら下がってみろと言った。そして、僕の体重ではびくともしないことを自慢するのだった。思い出すと笑えてくるくらい、芝居がかったやり取りだ。何かのドラマを真似していたのかもしれない。わからないけれど、僕らはそれくらい無邪気だった。

 そんな父が家を出たのは、もう二十年も前だろうか。自ら意気込んで戦争のために、人々のためにと志願したのだった。もはや記憶の中の父は幻のように霞がかっていて、その顔を思い出すことはできない。ただ、その時の言葉は覚えている。

「ちょっと行ってくるよ」

 タバコを買いに行くときと、ほとんど大差ない口調だった。僕は父がどこに行くのか、何をするのかも知らなかったため、笑顔で送り出した。母は黙りこくっていて不機嫌そうにしていたため、とにかく近づかないようにしていた。

 翌日の早朝。父の姿はない。それは、いつものことだ。市場の朝は早いのだから、慣れている。けれど、学校を終えて家に戻っても、いつまでたっても、父は戻らなかった。言いようのない不安を感じた。まるで太陽が登らなくなったみたいに、当たり前が訪れない。がっしりした、存在感の塊のような人が、いない。

 喪失感を強く感じているのは僕だけではなかった。食事の時間になると、母は陰膳を作った。淡々黙々とご飯をよそう姿は、鬼気迫るようであり、団らんの時間は訪れなかった。食器の音だけが聞こえる食卓は、ひどく居心地が悪い。僕は手早く食事を済ませて、逃げるように自室に戻った。母は何も言わなかった。

 幾日もそんな日が続いた。あるときから、家に帰ると、家の前に母が立つようになった。箒を片手に、掃除をしているふりをしているが、視線は忙しなく動いている。父を待っているのは明らかだった。僕は理解した。母にも、父の行方は知れないのだ。その時初めて「もしかして返ってこないのかもしれない」と思い至った。瞬間、全身が総毛立った。あんなに強い人が、消える。あの力強い腕に触れることは二度とない。この広い家で、あの姿を見ることがない。なにかめでたいことがある度に、満面の笑みを浮かべながら寿司を買ってきたあの人が。

 全部が終わりだ。悲しみで胸が苦しくなって、目に涙が滲んだ。かつて父は「泣くな」と言った。無理だ。涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。僕をいつも慰めてくれた父はいない。いくら泣いても手を差し伸べられることはない。いつの間にか、母が憔悴した顔で僕を見ていた。僕は責められているような気がして、萎縮した。子供ながらに「自分は助けを求めてばかりで何もしない子供なのだ」と気づき、自分を恥じた。

 つぎの食事の時間、私は一人で母に話しかけた。その空間が嫌だったというよりも、まだ母が何かつながりを求めているような気がして、そうしたのだった。話題はその場で思いついたものにすぎない。学校でこんなことがあった。父はどうしているのだろう。このテレビ番組はおもしろいね。すべてが空振りして、私が苦しそうに話していると、母は初めて口を開いた。

「止めなさい」

 初めて聞く冷徹な声だった。僕は、冷水を浴びせられたような気分だった。何か、失敗しただろうか。考える間もなく、母は感情を剥き出しに僕を叱責した。

「あなたは、なんなの? まるで当たり前みたいに、毎日生きて。そんなに楽しいの? あの人がいま、どんな思いで戦っているのか、わからないの? わからないでしょうね!」

 そう言って、食卓に拳をたたきつけた。味噌汁の入った茶碗が倒れる。僕は、静かにそれを拭った。何も言い返すことはできない。終わりだ。父が終わったのと同じように、もはや母に頼ることもできない。ただ悲しむこともできないのだろうか。いや、違う。僕がただ悲しんでいるに怒った母は、父が今どうしているのかを想っていたのだ。戦地で傷ついているのか。冬の寒さに震えながら戦っているのか。飢えているかもしれない。その中で安穏と生きている僕はなんだ。きっとそれが許せなかったのだろう。命のやりとり。殺し合い。奪い合い。僕は、戦争も、そこに赴く人のことも一切考えていなかったのだ。

12/8/2018 10:47:49 PM

iPad Pro が届いた

 衝動的に注文した iPad Pro 12.9インチが届いた。意気込んで封を解き箱を開けた。とにかくでかい。今まで使っていた iPad mini の約2倍の大きさだ。引き継いだ色々なゲームを触ってみた。全部でかい。両方同時に動かしてみると、mini のほうは子供みたいだ。

 で、それからどうするのか。結局何も変わってない。今日は一日中ゲームしかしなかった。画質を落として遊んでいたアリスギアは、ものすごい綺麗になってすげえなと思った。とにかく女の子のモデリングがすごくいいので、まるで変態のように眺めてしまう。たとえ変態でなくても、年頃の女性をじっくり眺める機能を与えられたら、その気になってしまうんじゃないだろうか。そしてそれは悪いことじゃないはず。

 スマホで遊んでいたドラガリアロストもインストールしてみた。とにかく画面がでかすぎて笑えてくる。ボタンが引き伸ばされて、にじんでないかと思うくらい画面がでかい。おかげで、今まで小さすぎて見えなかったルクレツィアのホクロに気づいた。スピーカーも4つに増えたので、ドラガリアロストに入ってるほとんどの歌もよく聞こえるようになった気がする。今回のイベントの優しい感じの歌も良いと思う。

 最後に新作のロマンシングサガ・リユニバースを遊んだ。この新しいロマサガは、色々と過去のリソースを組み合わせて、現代のスマホゲームの文法に当てはめたみたいな感じのゲームで、つまりは結局ガチャとか育成とか、相変わらずそこにあるのはそれだ。新しく登場したキャラもいるけど、旧キャラクターが目立ちすぎていて、主人公の存在価値がよくわからない感じになっている。

 今回のロマサガでやっているような「過去の英雄を召喚してあれこれする」というストーリーは誰が始めたのだろう。有名所ではフェイトだけど、同じような筋の作品は珍しくない気がする。ドリフターズとか。キャラクターをたくさん出せるので、ガチャと相性がいいのだろうけれど、ロマサガがそうであったように、英雄たちが濃すぎて主人公を食ってしまったり、それぞれが噛み合わなくて話がバラバラになったり、決して簡単なフレームワークではない気がする。

 延々とオートプレイをしていると、不毛だなあと感じる。良いゲーム機を手に入れたとは思うけど十万円以上するからコストパフォーマンスは相当悪い。こんなことをしている隙があるなら、スマブラに手を出すべきなのかもしれないし、このまえの物語に書き足すべきなのかもしれない。でもなんとなく別のを考えてしまうので、やはり別の話を書いてみようと思う。

12/8/2018 8:46:09 PM

ニーナ

 疲れ果てて帰宅すると、着替えもせずにベッドの上に倒れ込んだ。疲れた。仕事がうまくいかない。全部がうまくいかない。帰っていいぞと言われるまでただ壁の模様を眺めていただけだ。それなのに疲れている。精神か。あるいはそれ以外の魂が疲れている。もう休もう。そう思っているのに、頭の奥に何かが引っかかっていて、穏やかな眠りがやってこない。しかたなく身体を半分起こして、携帯に話しかけた。

「ニーナ、なにかおもしろいことはないか?」

 キャスターのように正確な音声で、彼女が今日の出来事を読み上げていく。日々投稿される膨大なニュースの中から人工知能が、おもしろそうなニュースを選び取っているのだ。私の個人情報に基づいてカスタマイズされたそのニュースたちは、それなりにいいところを突いていた。

 けれど悲しいことに疲れた身体はそれを受け入れようとしないようだ。普段なら笑っているだろうな、と思うような動画が流れている。それを冷たい目で見ている自分こそが滑稽だった。やがて社会面に入る。いつものコースだ。けれど真実は、どうでもいいことだ。私が収集している情報の中には、興味や関心に基づくものなく、人に合わせるために仕入れているだけの情報もある。それは私にとって義務であり苦痛であった。ニーナはそこまで区別できなかった。

 習慣につられて、興味もないのに、耳を傾けている。今は何の感動もおこらないが、枯れ果てた井戸を掘るように、少しでもなにかの潤いを求めている。だが、そこにはなにもない。私はその内容を一切聞いていない。音だけを拾っている。優しく正確な発音を心がけるニーナが哀れに思えてきた。「もういいよ」と命令を断ち切った。深い溜め息がこぼれた。彼女はそれをとがめた。

「なにか心配事でもあるのですか?」

「心配事だらけだ」と返したかったが、そのまま話を続ければ、彼女はその心配事を一つ一つ追求してくるだろう。またため息がでた。同じ問答が起きる。これでは永遠に終わらない。私は、いくつかの心配事の中から、もっとも素直で難しいものを選んで、彼女に問いかけた。

「私たちが生きているのはなぜだろう?」

 口に出した後、あまりにもくだらない問いかけだと思った。答えがあるかどうかなど期待していない。むろん、即席の答えを見繕うことはできるだろう。生き物の定め。本能。喜び。罪。願い。歴史。その他の似た言葉。どれも、心を撫でることもない空虚な言葉だ。私は納得しない。かぶりを振って思考を追いやる。

 奇妙なことに、ニーナも言葉を失っていた。それは、検索と通信によるものだろう。思考によるものではない。どこかの哲人が編み出した欺瞞か、あるいはなんとでも解釈できる玉虫色の答えか。どれにしようかニーナは迷っているのだろうか。そんな野暮なことを考えているうちに、携帯の中でニーナはつぶやいた。

「静謐」

 思わず私は聞き返した。同じく美しい発音で、静謐とただ一言返ってきた。それはまるで魔法のような、謎掛けのような一言だった。私はその曖昧な言葉に不快感をおぼえるよりも、むしろ強い関心を抱いた。いつも流暢な彼女が、なぜただ一言しか発しないのか。会話を拒絶しているのか。角度を変えて踏み込んだ答えを求めても、まるで固くブロックされているかのように、辞書的な意味を述べるばかりだ。

 私は推測する。それはプログラマの手によるものではないか。検索や人間を模倣するアルゴリズムによって得た答えとは思えない。この絶妙の間と、紡ぎ出すような一言は、予め人間が組み込んだものだ。つまり、人工知能ではなく、人間の答えだ。一体誰がそうしたのか。ニーナを生み出したのは一個人ではなく企業であるため、その影にいる個人の姿は見えない。

「お前は誰にそのことを教わったんだい?」

 私は聞いてみた。ニーナははぐらかしている。拗ねるように「そんなことを聞かないでください」と言う。それもプログラムされたものなのか、あるいは人工知能の汎用的な答えなのか。私はすっかりニーナのことがわからなくなった。こんなことではかえって眠れなくなるではないか。私は身体を起こして、スリープさせていたパソコンを叩き起こした。明日はぼろぼろになっているだろう。「単なるいたずらかもしれない。馬鹿馬鹿しいことだ」独り言を言いながら、ニーナを開発した会社とプログラマ、あるいはそこに使われているアルゴリズムについて調査を始めた。

12/6/2018 11:38:52 PM

いきなり学生編

 へいおまち。

 小学校の頃は、教師になりたいと考えていた。この理由は、はっきりと覚えていて、それは自分の担任の先生が優しくて面白い人だったからだ。その先生は、珍しいことに図工を専門にしていたらしくて、学級だよりとか、何か配る時に、手書きのイラストを書いていた。あと、図工の時間を長めにとったりとか、色々と工夫してくれていた気がする。もう具体的に何だったかは覚えていないけれど。糸鋸とか使わせてもらったり、色々やった。だから、そういうのすごいと思って先生になりたいと思っていた。それは、たぶん一般的な教師になりたかったんじゃなくて、その先生になりたかったんだと思う。

 中学校の頃は、けっこう面白い教師もいたけれど、それ以上に嫌な教師がたくさんいたので、教師になりたいとは思えなくなった。兄の影響で吉川英治三国志とか読んだり、叔父の影響で三毛猫ホームズとか読んでいたので、活字に触れることには抵抗がなく、国語得意なのではと思い始めた。少し文章を書いてみたりもしたけれど、ほとんどが支離滅裂なギャグ系の文章で、今よりもずっと本能型だったと思う。夢とか目的は全然なくて、ゲームが好きだったからゲームプログラマーになりたいな、という気持ちはあった。ゲームを作る人はディレクターとかプロデューサーとか、プランナーとか色々あるはずなのに、なぜプログラマーしかないと思っていたのかよくわからない。たぶんバカだったんだと思う。毎日のように格闘ゲームした。

 高校生の頃は、一年生はほぼ格闘ゲームしかしてなかったけど二年生あたりから、かなり真面目に生きた。先生が野球部で体育会系なのに優しくて数学担当、という稀有な人だった。体育会系といえばチンピラだと思っていたのが大きく覆った。先生はかなり真面目な人だったので、この人に褒められたいと思って真面目に勉強した。三国志読んでたバフのおかげで、古文とか漢文はめちゃくちゃ得意だった。何も勉強してないけど文法の八割くらいがわかって国語無双した。さらに、叔父がゆずってくれた森博嗣の本にいたく感動して、中二病を超えた自意識過剰な状態になる。かなりポエムを書いた気がする。誰にも見せてないし、もうとっくにゴミ箱行きだが。なりたいものとか目標はなくて、ただ親や先生に認められたいから真面目に勉強した。

 大学生の頃は、まあまあ真面目に生きた。友達は一人しかいなかったので、やることがなくて勉強していた。もはや認められたい人もいなかったので、何か「勉強真面目にしてる自分格好いいのでは…?」みたいな感じで勉強していた。しかし大学は割と理不尽で、教師がお気に入りの学生を優遇したりするし、先輩とのコネがある人だけ過去問を入手できたりするので、不信感がけっこうあった。そのころ目的があったかというと、あんまり覚えていない。たぶん目的はなくて、誰も認めてくれないので勉強するのが馬鹿らしくなってモンハントライとぷよぷよフィーバーに没頭していたと思う。でもたぶん成績は自分のアイデンティティの一部だと思っていたので、成績だけは落とさないようにしていた。

 大学院の頃は、研究室の後輩が格闘ゲーム好きだったので仲良くなれた。ただ教師に「何をしても怒られるしダメ出しされるので、何もできない」という状況になって保健室行きになった。これまではたぶん「先生=褒められたい人」がほとんどだったので、ただひたすら頑張ったし気に入ってもらおうと思って努力したけど、それは意味がないんだと気づいた。そして「その男=ぶっ殺したい人」なんだと理解してからすごく楽になった。おかげさまで、かなり頭が働くようになったと思う。ここで清濁併呑の感覚が出てきたような気がする。目的とか夢とかは考える余裕はなくて、とにかく入れる会社なら何でもいいと思って就職した。

 就職してからの話はまた明日。

12/5/2018 11:04:24 PM

くすぶる夢

 「小説書くって言ってたけどどうなったの?」と聞かれた。素晴らしい指摘だ。一言で答えるなら「書いてない」ということになるが、書いてないことから気づくことがあったので、まとめてみよう。

 夢というのは二つに分かれるような気がしている。一つははじける夢で、もう一つはくすぶる夢。

 はじける夢はとても簡単で、たとえばプロ野球選手になりたいとか、棋士になりたいとか、そういう感じのもの。成長していくうちに無理だということがわかるもの。年齢的な限界があるもの。取り組んでいたとしても「ああこれで終わりか」と感じるような終息するときがかならず来る。どんなに頑張っていても、ある時シャボン玉がはじけるように全てがなくなる。それからは別の道を歩まざるをえなくなる。

 一方のくすぶる夢は、漫画家になりたいとか、小説書きたいとか、弾き語りしたいとか、そういう感じのもの。いつまで、という終わりが不明確で、年齢的な限界がないもの。必死にやっていようと、気まぐれにやっていようと、終わりは来ない。うまくいかなくて、あるいは時間が足りなくて離れたとしても、燃えさしがずっと残り続ける。

 よくいる売れないシンガーソングライターとか、くすぶる夢の代表選手だろう。もしかしたら売れるかもしれない。あるいは、好きで続けていてやめられない。人々に認められるだけの作品を打ち出すことはできないけれど、何か沼にはまったように、そこに居続ける。

 これは、不毛なことなのだろうか。全力で打ち込むことなく、ただずるずると同じことを続けているのは。完全燃焼して、砕け散るほうがまだいいのだろうか。砕け散った後大成しないとわかっていて、続けるのは許されるだろうか。いや、許す許さないとか、良し悪しなんてものはない。本人がよければそれでいい。というのが常識的な判断だ。うまくいくかどうかよりも、楽しめるかどうかのほうが大事だ。

 でも、そんな当たり前の答えに着地しても、ちっとも嬉しくない。もっと心を奮わせるような答えはないか。そう考えてすぐ思い浮かぶのがラブライブの歌だ。「勇気はどこに?君の胸に!」という歌でうたっている。

何度だって追いかけようよ 負けないで 失敗なんて誰でもあるよ 夢は消えない 夢は消えない 何度だって追いかけようよ 負けないで だって今日は 今日で だって目覚めたら 違う朝だよ

(三十分ほど曲を聞く)

 聞いてると頑張ろうと思える。楽しめるかどうかじゃなくて、くすぶる夢であっても、それを追いかけることがとても素晴らしいことのように思える。そして、なんでそうするのか? それは「だって、目覚めたら違う朝だから」すげーわけわからん。だがそれがいい。力が湧いてくる。あとユメノトビラとかも聞いとけばおk。

12/4/2018 10:03:42 PM

善行できるかな

 善行というものについて考えた。電車でお年寄りに席を譲るとか、道に迷っている人を案内してあげるとか、落とし物を拾って手渡してあげるとか。そういう助け合い精神というのは動物にもあるらしい。この前、自分の子供じゃないのに、群れの中にいる子供を助けたゾウの話を聞いた。それはたぶん、合理的だからそうするのだろう。余裕のある者が、余裕のない者に手を差し伸べる。それは、分子の結合みたいなもので、持たないものと持ってるものが結びつく自然なことなのかもしれない。

 だから、おそらく多くの人が上に挙げたような善行はするべきだし、自然とできるほうが好ましいという教育をされてきたはずだ。それは確かに合理的なので、そうしたほうがいいだろう。けれどしかし、実際には、誰かに席を譲ったり、何か善行をするのは難しい。

 それはなんでだろうか。一つには、その人が本当に余裕が無いのかどうかわからないから。もしそこを読み違えてしまうと、失礼になるかもしれない。なぜなら「あなたは余裕がなさそうだから席を譲ってあげるよ」という押しつけになってしまうので。そこで、断られてしまったら、なんとなく居心地の悪い感じになってしまう。逆に、青い顔で立っているのも辛そうな人なら、席を譲りやすくなる。

 もう一つは、困っていてもなんとかなるような時代になってきたから。たとえば道に迷っていると言っても、最近の地図アプリは優秀なので、ゆっくり時間をかけて調べれば、目的地までたどり着けるだろう。困る状況が減っているので、助ける機会も減っているというわけだ。

 さらにもう一つ。自分じゃなくても誰かが助けにはいるだろう思ってしまうから。有名な「誰も消防車を呼んでいないのである」というやつだ。火事というのは目立つし、たくさん人が集まってくるから、誰かが消防車を呼んでいるだろう。助けに入るだろう。と考えて誰も動かなくなるというパターン。

 まだもう一つある。一番言いたかったやつ。それは「何かっこつけてんの?」と思われたくないからだ。率先して善行をやるのは、どう考えても目立つ。それは点数稼ぎみたいに見えるし、何か社会に対して媚びているような感じさえする。誰も見ていないところでも同じ善行ができるのか。心からその善行をしているのか。ポーズだけじゃないか。そういう不思議な、合理性とは関係のない所でプレッシャーを感じて、踏みとどまってしまう。わけがわからない気もするけど、自分はそうだ。

 「これって、あれじゃない? 席譲ったほうがいい系の流れ? うーんどうしよう。ああでも、何かこう大丈夫そうな感じ? だからまあ、ちょっとくらい我慢してもらって、そのままでも大丈夫だよね。うんそれでいいや」みたいな感じの見逃し善行がわりとある。こんなしょうもない葛藤をする度に、しょうもない大人になっちゃったなと思う。警察官とか、教師とか、何かを背負っている人たちだったら、見得を切ることもなく、さらりと善行できるんだろうか。

 それにしても、なんて人間はめんどくさいんだろう。「余裕あるけど、余裕あげようか?」みたいな単純なことのはずなのに。

12/3/2018 9:20:15 PM

苦手なもの:街

 少し用事があって、一人で街の中央に遠出することになった。グーグルマップを開いて、目的地を検索する。職場から一駅離れた場所だということがわかった。それなら多分行けるだろう。

 前準備はそれだけで、当日になった。すると、かなり緊張して血の気が引いた。小便を漏らすんじゃないかというくらいの状態で歩いた。それでも、どうにか目的地までついて、用事を終わらせた。ほっと一息ついて足を休める。ただ街を歩いただけなのに、言いようのない寂しさを感じた。

 それはたぶん、何も知らない自分を思い知らされたからだ。わずか一駅離れただけなのに、何も知らない。綺麗な店。高いビル。光る看板。きらびやかなものが、ものすごい密度で、把握できないほどの施設が集中している。歩いても歩いても立ち並ぶ。目眩がしそうなその中を、周りの人達はすいすいと歩いていく。

 彼らにとってはそこが居場所なんだと思った。そこに、言いようのない溝を感じる。ふいに、友人から一報が届く。「こういうレストランに行ったよ」とそれだけの話しだった。良かったねと適当に返事をしながら、添付された地図を開いた。ここから一駅くらい離れた店からだった。こんなに近くなのに、わからない。ああやはり、自分は何も知らないのだ、と立ち竦んだ。地図アプリが気を利かせて、他のレストランを提案してくる。そのまま任せてみると、 画面が窮屈になるほど候補が出てきた。知らないものばかりだ。地図を縮小してみれば、さらに知らないものだらけになる。少し北の方を眺めてみる。色々なお店や観光地が流れていく。

 とてつもなく寂しい気持ちがした。ただひとつの街でさえ、知るに及ばない。日本でさえ果てしなく広い。世界を見る気にもなれない。自分は、圧倒的に小さな生き物にすぎない。外に出る気概もない。旅人の話を聞いて、遠くへ思いを馳せることはあるけれど、そういう自分に同じ経験ができるのか。圧倒的に生き方に違いがあるという事に気がついて、無性に寂しくなった。

12/2/2018 8:11:55 PM

プレゼンつっこみおじさん

 人のプレゼンを何度か聞いてきて突っ込みたいなと思いながら結局言えずじまいのことがたくさんあるので、ここに書き並べることにする。

 まずひとつ目は、プレゼンのタイトルについて。タイトルは自由につけてよいと思うが、最も無難なのは「私と○○」だと思う。○○のところには、趣味とか技術とか発表内容をいれる。これが無難な理由は、発表内容がどんなものであっても「個人の視点でみた○○との接し方」を語っているのだから、聴衆が納得しやすいということだ。とはいえ、こういう無難なタイトルは刺激が少なくてつまらないと言われてしまう可能性は避けられない。

 刺激的・挑発的なタイトルをつけるのも悪くはない「お前らの○○は間違っている」とか「○○になるための10の方法」とか「まだ○○で消耗してるの?」とか。ただその場合、聴衆は「おう、上から目線から来たなオイ、少しでも間違ったことを言ったら叩きのめすぞ」と身構えるので注意が必要だ。けれど、そんな風に感情を揺さぶるタイトルのほうが、議論がヒートアップして面白くなるのかもしれない。

 二つ目は「その言葉いる?」って話。いやまあどんな言葉を使うのも自由なんだけど「平仄をあわせる」とかいくらでも簡単に言えそうなことをわざわざ難しくしたりとか。あと意味の広い言葉をホイホイ使うのも気になってしょうがない。「社会実装」とかなんやねんって。関西人でもないのに関西風ツッコミしたくなるくらいにはソワソワしてしまう。そらまあ想像できるよ。人は想像する生き物なので。でもなんか各自想像して話を進めるのって間違った方向に進みそうな気がするので、やはり避けるべきことなのだと思う。

 三つ目は、何かを比較するときについて。プレゼンでは「A より B のほうが良いです」と主張することがよくある。たとえば Safari より Google Chrome のほうが便利ですとか。犬より猫がかわいいですとか。そういう風に比較をするときは、まず A と B は比較可能なものにしなければならない。

 何をそんな当たり前のことを、と思うかもしれないが、意外とできてない。「絶対にそうしろ。振り返り悔改めよ」と声を荒げたくなるくらいには、できてない。できてない例を言うなら、移動手段を比較するときに「徒歩」と「自転車のBROMPTONに乗る」とかを比べだす人がいる。わりといる。普通に考えれば「徒歩」と「自転車」で比べるべきなのに、片方だけやたら詳しい。おそらくその人はBROMPTONの自転車に乗っていて詳しいから、ついそれを話してしまうのだろう。犬猫比較の例もそうだ。「コーギーは猫よりかわいい」とか言い出してしまう。気持ちはわかるけど、おかしいことに気づいて。

 そして A と B が比較可能になったら、かならず表を作れ。せっかく比較対象を持ち出したのに比較しない人がいる。たとえば「価格を見ると B より A が安いです」と入った後に「使いやすさの点でいうと A が使いやすいですね」みたいな物言いだ。聴衆は心の中で叫んでいる「B は使いにくのか? どっちやねん」都合の良いポイントだけ比較して A を売り込もうとしているのかと勘ぐってしまうし、とても聞いていて落ち着かない。

 最後はドンデンドンデン返しについて。ここで言いたいのは「主張を何回も反転させるな」ということだ。思考の流れとしてはスムーズだったとしても、主張をめちゃくちゃかき回す人がいる。たとえば次のような感じだ。「最初は A と思ってました。しかし B ということがわかり、A ではないと思いました。ここで実験を試みて B が疑わしいということがわかりました。それを突き詰めることで、やはり A であるという結論に至りました」あーはい頑張りましたね。と言いたくなる。いやまあ頑張った物語を伝えたいならそれで正解だしドラマチックで面白いんだけど、あなたが伝えたいのはドラマじゃないでしょ。的な。いやまあ楽しさも大事だけどさ。

 どうしたらいいかというと「いろいろ実験した結果 A ということがわかりました。B と思うかもしれませんがこれを否定する材料はこれこれです」みたいな展開にすればいい。そうすればさらなる否定材料 C D E が出てきてそれに立ち向かっていくようなストーリーにもできる。こういうの、本当にこだわらない人も居て、発表者の気持ちをトレースしたいと考えてる人にとっては、ドンデンドンデン返しは、まるで少しも気にならないようだ。

 こういう感じで本当に色々と悶々としている。探せば多分もっとあるはず。でもそういう指摘ってだいたい相手を萎縮させるだけで嫌われるので、あまり言わないほうがいい。なぜなら直さなくても、中身は八割がた伝わるから。あと発表した人が議論したいのはそういう部分じゃなくて中身の話だから。そう、普段は口を閉ざしておくので、書捨ての日記くらいは。

12/1/2018 4:08:37 PM

感情を分析しろ→しなくてもいい

 12月は一人でアドベントカレンダーをやるつもりだ。 https://adventar.org/calendars/3628 どうせ記事はここに書くので、上のURLはなんの意味もない。モノクロの例のアイコンが並んでいる姿はなかなか不気味である。

 なぜそんなことをしようと思ったのかというと、一つは実験だ。最近ブログを書くときに時間をかけすぎる傾向がある。練りに練ったものを送り出そうとして、完結しないままお蔵入りするのだ。自分の過去を振り返ると、ブログ記事に限らず、いろんな創作物がそのような傾向にある。これは良くないことのように思われるから、たとえ内容が薄く、推敲の甘い文章であっても世に放り出してみるのはどうか、と思ったのだ。考えをすばやく書き出していく瞬発力が鍛えられるに違いない。もう一つは宣伝だ。何か転職活動をしようとか、文筆業で食っていこうとか考えたときに、そういうことができます。という実績として役立つかもしれないと考えた。

 宣伝はさておき、書こうと思ったまま、まとめられていないことについて少し話をしよう。それは、感情の分析に関することだ。たとえば、怒りを分析しよう。あなたが書いた傑作プログラムを見た上司が「そのコード、ひどいもんだ。どれ、俺に貸してみなよ」と言ったとしよう。あなたは思うはずだ。「ふざけるな。俺がどのような試行錯誤と熟慮の末にこれを書き上げたのかも知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえ」その上で、もしそれを口に出したとしたら、二人は殴り合いの喧嘩になるだろう。そういうときに、感情を分析する力があれば、争いが生まれずに済む。

 すぐさま殴り合いを始める前に、怒りを感じたその瞬間に自らに問いかける。「なぜこんなにも腹が立つのか?」それは、自分が長い時間を費やして、どうにか動くところまでこぎつけたプログラムを貶されたからだ。決して良いプログラムではないにしても、努力の末に書き上げたものだ。だからそれを否定されたくない。こうして感情の原因を知ることで、怒りを鎮めることができる。そうすれば、あとは上司がプログラムの品質を上げてくれる、という良い結果だけが残るだろう。

 こんな風に、感情を分析するということは、良くない感情を鎮めるのにとても役立つ。嬉しい感情を分析すれば、自分の好む事柄を見つけるのに役立つだろう。ごく当たり前のようであるが、なかなかそれを意識的にするのは難しい。だから僕の場合は「不満です」とか「腹が立ちます」みたいなことをまず表明することにした。「理由は今から考えます」みたいにしてあとづけする。そうすれば、相手をびっくりさせてしまうかもしれないが、殴り合いをせずに済むし、アドバイスも受けられる。

 ここまでのことを「すごくいいことを発見したな」と思っていたことのだが、最近、それが少し逆転し始めた。感情を分析すればいいというものではない。分析しなくていい感情は、存在する。それが何かと言うと、たとえば「友達が結婚したのが悲しい」という気持ち。これを分析してみるなら「友達が結婚したことによって、その友達と過ごせる時間が減ってしまうだろう」という推測による悲しみ。「自分が結婚できない中で先を越されてしまった」という悲しみ。「結婚できるはずないとある意味見下していた友達が結婚できてしまった」という悲しみ。とにかく、いろいろと好ましくない考え方が溢れ出てくる。自分のくだらなさとか、いたらなさというのが湧き水のように染み出してくる。なんだそれは。意味あるのか。意味なくないか。というのが逆転の始まりだ。

 そういう風に、己の醜さがあらわになるだけの自己分析は、たぶんやるべきでない。わからないままでいい。実際、わからないままでいいことは、たくさんある。たとえば、C = A or B という論理式について、 A が真なら、B の真偽を問わず C は真となる。どんなに複雑な式であっても、それは同じだ。X = A and (B or (C and D) or E) とかの難しそうな式でも A が偽なら、ほかの B,C,D,E にかかわらず X は偽になる。わからないままでも、話が進められる。わからないままでも、わかるところだけ式を変形できる。そういう論理的な性質が、感情の分析にも使えるのではないだろうか。

 自分のことを細分化して細分化して、分析して明らかにしようといつも考えてきた。DNA解析みたいに。けれども、DNAは G C T A の四種類の塩基がただひたすら並んでいるだけだ。そこから得られる知見もあるだろうが、そこからは決して得られない知見もある。分解せずにそのままでいいじゃないか。辛いとか悲しいとか、とりあえずそう感じるままにしておいて、原因の解決も、改善も何も考えずに、ただ心踊るような音楽と、美味しい食べ物でも用意すればいいじゃないか。

11/30/2018 11:00:49 PM

警察官をクビになった話の感想

警察官をクビになった話 を見た。あらすじは下記のようなもの。

 警察官になることを夢見る少年がいた。彼は努力の末に警察学校に合格する。しかし、何かと要領が悪い少年は、訓練で周りの足を引っ張ってしまう。それが何度も続くうちに、同級生からいじめを受けるようになった。教師も見て見ぬふりをするどころか、いじめに加担するようになっていく。寮という閉鎖的な場所で、暴力を振るわれ、罵られる日々が続く。

 状況は改善の兆しを見せない。その一端には、彼自身の能力不足があるのだろう。わかってはいるが、もともとの夢であった警察官を諦めることができない。彼は耐え粘り続ける。虚しい努力が続く。

 そんな努力を意に介さず、むしろ疎ましく思った教師たちは狡猾な策略を仕掛ける。親を呼び出し悪し様に言う。指導と称して食事時間を奪う。連帯責任で恨みを買うように仕向ける。

 それほど疎まれているのだと痛感した少年は絶望し、退学の道を選んだ。無能の烙印を押され、心の傷が癒えないまま職を求めるが、失敗し落ちこぼれていく。

 弱者を守るべき警察官が、弱者を虐げる矛盾の恐ろしさ。そして、夢に縛られる苦しみ。報われない努力の虚しさ。壮絶というほかない。

 少年はいったいどうすれば良かったのだろう。いじめに対してよく言われるのは「逃げろ」というアドバイスだ。なるほど、そうかもしれない。一方的で理不尽な攻撃に対してできるのは、それぐらいのことしか無いのかもしれない。

 ただこの場合、逃げることは、夢が断たれることを意味している。これまで積み上げた努力を放棄することを示している。過去の自分を否定するのは容易なことではない。知った顔をした大人が、そんな辛い決断を促すのは無責任な言葉のように感じる。

 でもそのままじゃ駄目だということは本人も感じているだろう。だから、警察官になれないとしたら、何をするのかというのを考えてもらうのがいいかもしれない。それ以外のやり方で、夢のいくらかを満たせる仕事。いや、仕事でなくたっていい。ボランティアか、あるいは趣味か。見苦しかったり、効率が悪かったりするかもしれない。誰からも褒められないかもしれない。それでも、やりたかった事の何割かは実現できるはずだ。

 もし、やりたいことに一ミリも関われなかったとしても、仕方がない。夢はなくとも生きていける。代わりに幸せと思しきものは、あちこちに漂っている。見つけようと目を凝らし、近付こうと藻掻くことはできるだろう。それが蜃気楼のように消えてしまうから、難しんだけれども…。夢が破れようがなんだろうが、その先にもいろいろな道がある。

 焼け石に水かもしれないが、水を注ぐ人の存在が、僅かばかりの勇気の種になることがあるかもしれない。もし挫けそうな人が居たら、なにか声をかけてやりたいと思う。

10/30/2018 10:34:25 PM

硬直とその破壊

プログラマに限ったことではないと思うけれど、仕事を始めたばかりの頃は新鮮なことに満ち溢れている。誰もが先輩で、全てが未知の仕事。そこでは、いろいろな知識が洪水のように流れ込んでくる。これは何だ、こんなものがあるのか、こうすればいいのか。ひたすら感嘆して日々学習していくだろう。中には、すぐにはできないこともある。理解できないこともある。それも繰り返し経験することで自分のものになっていく。

しかしながら、一年二年と過ごしていく中で、ある程度力がついてくると、考えなくても習慣で体が動くようになる。未知のことを既知のことでカバーできるようになる。これは「慣れてうまくやれるようになった」と言うことだが、見方を変えれば「新しい情報を取り入れなくなって硬直している」と言うこともできる。ぼんやり仕事をしているような感じだ。僕は、七年か八年くらい同じことをして、もう、すっかり骨抜きになって日々過ごしていた。つまらん、眠いとぼやいていた。

そんな状況では、周りで新しい技術が生まれ、知識の源がちらついていても「今抱えている仕事を終わらせなきゃいけないから」と目をそむけてしまう。逆に「暇なやつはいいよな」と内心で皮肉を飛ばしていた。仕事を終わらせると上司が次の仕事を出すので、その状況は永久に変わらない。今まで組織的にやっていた振り返りや改善活動も自然消滅してしまったから、いよいよ脳が働かなくなった。ひたすら眠い。

そういうとき、部署異動の話が来て、飛びついてしまった。新しい部署では、研究開発を行うことになった。でも、退屈でひたすら眠かった。そこでは、大まかな分野だけ指定されて「勉強してください」という放任主義だった。仕事をもらって、消化するというスタイルにすっかり慣れきっていたので、やはり脳が働かなかった。勉強しようと思っても眠くてしょうがない。興味も出てこない。

八方塞がりになって、こっそり転職活動をした。結果はあっさり落ちた。

ただその過程で、プログラミングに対する知識の浅さを思い知らされた。一つ二つの言語を使えたり、いくつかのフレームワークを使える程度では、あまり応用が効かない。学ぶのが遅い。なにかもっと概念的な知識、デザインパターンとかドメイン駆動開発とか、そういうものを理解していたらいいのかもしれない。あと、新しいことを学ぶときに英語情報しかないというのが本当に多い。だから英文を苦しみながら読むのではなくて、気軽にすばやく読めるようになりたいと思った。こういう感想は、ありふれた、衝動的なものに過ぎないけれど、ともかくそう感じた。

それから、今ある仕事を効率的にやる方法についても真剣に考えるべきだと感じた。ただそれは義務的に嫌々やることではない。切実にやるべきだ。カイゼンとかアジャイルとか形式を先に持ち出すべきではない。自分が悩み苦しんだことを、再び繰り返さない策を立てる。優先順位とかブレインストーミングとか KEPT とか一切しない。ただ心の中で最も負担に感じることや、関心のあることのみ考える。責任、恨み言、綺麗事、色々な本質でないことが混じるので仲間探しはしない。仲間を集めても、どうせ時間がないのでまた今度やろうとか、俺だけ苦労する義理はないとか、得意なやつがやればいい、とかそういう話になる。「みんなの改善したいことを探す」のはたぶん無理だ。だから「俺の苦しみ・非効率を取り除く」ことをまずは考えよう。不羈独立でいこう。

9/27/2018 9:51:19 PM

オクトパストラベラー

オクトパストラベラーというゲームを遊んだ。

どんなゲームかというと、八人の主人公を動かしながら、敵と戦ったり、ダンジョンを探検したり、街を歩いたり、ちょっとしたトラブルを抱えた人の手助けをしたり、という感じのRPG。九十年代のテイストを重視しているらしい。

僕が選んだのはオルベリクという元騎士。手短にいうと、次のような話。

オルベリクは友人のエアハルトと共に王様に仕えていた。双璧と呼ばれるほど信頼され重用されたが、とある戦争中にエアハルトが突如離反、王様を斬殺してしまった。国が滅び絶望したオルベリクは山村の村で名もない剣士として過ごしている。そんな中襲ってきた山賊の口から、エアハルトの名を耳にする。オルベリクは自らの正体を明かして、彼を追うことを決意した。

この導入は結構良かったと思う。名もない剣士が実は「剛剣の騎士」という大層な通り名を持つヒーローでした、という流れにはわくわくした。オルベリクは忠義に生きる武人という雰囲気だからさぞ激しい復讐劇になるだろう、と思っていた。ところが、そこからはエアハルト探訪記になる。エアハルトが罪を犯したのは何故か、ということを知るための旅。エアハルトは、結果的に何千何万の命を奪った男なのだから情状酌量の余地はない、と自分は思うのだけれど。

その後、色々あってオルベリクは剣を取る理由に悩む。そこでもドラマありそうなんだけど、特にない。関わってきた近しい人々を思い浮かべ、彼らを守るため剣を取る、という無難な結論に着地。大悪党を倒してオルベリクは村へ戻る。物語は終わり。うーん。僕はエンドロールで首を傾げた。一見ハッピーエンドなのだけれど、それで良かったのだろうか。釈然としない。

全体としてオルベリクは、もっといろんなもの背負ってるんじゃないか、深い悲しみを抑えているのかなと思っていた。しかし、クリアしてみるとその片鱗も見えなかったのが悲しい。あまりにも淡白。家族とか恋人とか姫とか、守るべき人を出して執着する方が良かったのではないだろうか。人々を守るためではなく、姫を守るためとか、妻子を殺した男を復讐するためとか、そういう強烈な感情を持っていて欲しかった。残念。オルベリク編については以上。他の主人公はクリアしてないのでゴメン。

上記のようにストーリーはもやもやさせられたけれど、遊んでいる道中はゲームとしてすごく面白かった。宣伝されていた通り、ドット絵は綺麗だったし、自然な明暗の表現、ぼやける遠景とかドット絵では見たことのない美しさがあった。街を見ただけでこれは新しいぞとわかった。バカでかいボスがでてびっくりしたり、主人公のジョブごとの衣装替えパターンで感心したり、細かな感動はたしかにあった。

バトルではブレイクとブーストという二つの仕組みが選択肢を広げている。そこそこ考えがいがあるし、上手くやればかなり強い敵とも渡り合える。簡単にレベルが上がって強くなるから、少し強い敵の出る地方へ行って、行かなくてもいいダンジョンを巡って、新しい街に着いたら買い物や盗みでさらにパワーアップして、また新天地へ…。というその繰り返しが中毒的に面白い。もうストーリーは進めなくて良いなと思えるくらい面白い。実際、プレイ時間の八割くらいはレベル上げをしていた。

あとひとつ、フィールドコマンドについて。これは、ほぼおかしい。罪のない村人に一方的な試合を挑んだり、モンスターけしかけたり、誘惑して連れ回したり、盗み働いたり。特に盗みはほぼリスク無しでリターン大なので、ゲームとしておかしい。バランスが破綻するほどではないから、村に宝箱が大量にあるだけだと思えば、おかしくはないのか…。そういう笑い話にできる程度には収まっているので、この仕掛けは成功しているのかもしれない。世界観的には、通りで堂々と行われる犯罪が見過ごされているので、心配になるけれど。

まとめると、オクトパストラベラーは変なゲームだったなと思う。犯罪じみたフィールドコマンドのせいで世界観がカオスで、ストーリーも何だか変。でも絵は綺麗だし、広い世界をうろうろして、ただただレベル上げしてるだけで楽しい。こういうゲームもっとやりたい。

8/5/2018 3:08:30 PM

嘘つき姫と盲目王子

嘘つき姫と盲目王子というゲームを遊んだ。

これは、本当に難しい。ゲームが難しいと言うわけじゃなくて、面白いか面白くないか、そう言う話をするのが難しい。パズルに頭を悩まされる場面はほとんどなくて、終幕まで五時間ばかりしかない。追加・収集要素にも乏しい。やりがいとか、満足感を与えてくれない。なんだじゃあ駄作じゃん、と言いたくなるんだけど、それでも何か、感動の五分咲きと言うか。満たされないまでも、心にくるものが確かにあった。だから難しい。

それはやっぱり物語の良さから来ているところが大きい。物語全体よりも、とにかくプロローグ、始まり、空気作りが完璧だと思う。簡単にあらすじを言うと下のような感じだ。

人間と化け物が対立する世界。化け物にとって人間は食料でしかなく、人間にとって化け物は恐怖の象徴だった。ある月の夜、狼の化け物が切り立った崖の上で歌っている。偶然それを耳にした王子は、その美しい歌声に聴き惚れてしまう。歌を聴くため、通い詰めるうちに、狼と王子は互いに関心を持つようになる。やがて、声の主をひと目見たいと感じた王子は崖を登る。驚いた狼は自分の姿を見られたくないあまりに動転して、王子の目を切り裂いてしまう。視力を失い、失脚した王子を救うため、狼は王子の元へ赴く。彼の手を引くため、姫の姿に化けて。姫の姿になるために狼が払った代償は、その美しい歌声だった。

こうして書いてみるとあっさりしているような気がするけど、絵と動きがつくと、切なさが倍増する。公式に配信されているPVを見るのが一番いい。


嘘つき姫と盲目王子 イメージムービー

本編にさえ含まれてない演出が大盛りで、物凄いドラマチックに仕上がっている。 狼は王子のことが好きなんだけど、そんな化け物が愛されるわけないから、嘘のまま接し続けなければならない。こういう爆弾を抱えて取り繕いながら過ごして行くところが、凄く物語的で良い。 下のようなモノローグも象徴的だ。

嘘の姿じゃないと… あなたに 触れられない

本当のわたしでは あなたに 触れられない

このストーリーと、パズルの仕掛けが本当にうまく噛み合っている。プレイヤーは狼を操って障害を排除して、王子の手を引く時だけ姫の姿に化ける。話してるとめちゃくちゃ面白そうに見える。

ところが、ここまでの前段があまりに完璧すぎて、そのあとが、あれっ、思ったより普通だなあと思ってしまう。他の化け物に襲われたりするけれど、基本的に狼は無敵。色々な起伏がありながらも、最後は何とかハッピーエンド、という感じだった。これがどうも童話っぽい感じでもやもやする。いや、それは正しい。優しい。綺麗な終わり方だ。めでたし、めでたしと結ばれる昔話に連なる王道だ。

そこでようやく、自分はもっと姫をもっと苛めて欲しかったんだなと気づいた。本編は優しすぎる。狼は強靭な肉体を持つのだから、ボロクソに傷きながら王子に尽くすことが可能だろう。そういう壮絶な献身を見たかった。変身する度に苦痛を伴うとか、爪が剥がれるまで走るとか、全身大火傷になるまで王子を庇うとか、もがきながら進んでいく姿を見たかった。そういう並み外れた苦難の中に、信念とか真心とかそういうものが輝くのを見たい。ハッピーエンドにたどり着くまでにもっと地の底へ落ちて欲しかった。サイコ野郎ですまんな。

そうして全部が終わって、確認のためいま一度ゲーム画面を開く。背を向けた狼が月を見上げながら、口をぱくぱくと動かしている。何かを歌っているようだ。背景に流れるピアノの音色が泣けと言っている。 この不完全な美しさよ。これまで話したことの全てを、一番最初の画面で想起させられる。それを駄作ということはできない。足りてない事がたぶん、いくつも挙げられるだろうけど、それをいちいち突きあげて何になるだろう。感動がぬるくなるだけだ。

7/16/2018 12:00:00 AM

悲しいことについて

腹膜炎とかいう病気で、ひたすらに眠っていた頃、ある夢を見た。二匹の猫を撫でたり、おもちゃで遊んだりする夢だ。どこかで見たことのある顔立ちだなと思ったら、かつて一緒に暮らしていた猫だった。すると、とてつもなく悲しい気持ちになった。僕はそいつらの事が気に入っていて、好きだったのだとわかった。

悲しいことがあった時、多くの人は気晴らしをする。好きなものを食べるとか、体を動かすとか、テレビを見るとか、とにかく悲しいことを放っておいて、楽しめることをする。楽しんでいるうちに悲しいことを忘れてしまうだろう。

夢に見た二匹のことも、そうして忘れてきた。いや、忘れているというよりも、記憶にふたをしているという方が正しいかもしれない。思い出さないようにしているが、何かの拍子にふたが外れると、思い出があふれてくる。彼らが命を落とす前のことは鮮明に覚えていて、それが一番悲しいことだ。

こういう事を何度か繰り返してきて、今またそれを体験している。ああ、そういえば悲しいなと思い出す。何か生きることの虚しさというか、終わりが訪れることへの不安とか、そういうもので胸がざわつく。いつもなら、悲しみが引くまで、触れないようにする。けれど、今はなぜだか、そうでもない。

猫たちの事を思い出すと悲しいのは、二度と会えないと信じているからだ。それなら、いつかまた会えると信じてみるのはどうだろう。生まれ変わるのかもしれないし、自分が死んだあと迎えにきてくれるのかもしれない。そういえば「虹の橋」という話が、まさにそう言っていた。いつか会えると。それはとても感動的なものだが、甘すぎる。それほど都合の良いことがあるとは、信じられない。

それなら、二度と会えなくても仕方がないと割り切るしかない。彼らは生きていた。その事実こそ幸運だったと感謝するのはどうだろう。悲しくなるのと同じくらい幸福な時間があったはずだから、そのことについて感謝する。悲しいのはしかたがない。悲しくても、暗い顔をしなくていい。悲しいまま楽しく生きていけるだろう。

7/2/2018 12:00:00 AM

Undertale

 Undertale というゲームの話をしよう。色んなハードに移植されて、賞とかとったらしい。もっと優れた感想やレビュー、分析や考察があることだろうから、わざわざここに書く必要はまるでないんだけれども、自分が泣いたゲームを書かなくて他に何書くのって感じのつっこみが自分の中にあって、だから書く。まずは、あらすじを話しておくと、次のようなもの。

 プレイヤーは深い穴に落ちる。その穴はモンスターがだけが暮らす世界で、人間が来ることはほとんどなかったらしい。初めて会うモンスターは、やけに優しくて、母親みたいに手をつないで、プレイヤーを守ってくれる。だけど皆がそうというわけじゃない。モンスターにもいろんな奴がいる。人間が珍しくて、話しかけてくるやつがいる。人間が大嫌いで、殺意をみなぎらせて襲ってくるやつもいる。ジョークが好きで、ふざけてばかりのやつもいる。言葉の通じないやつもたくさんいる。プレイヤーはモンスターを倒してもいいし、和解してもいい。全てが敵になりうるし、友だちにもなりうる。

 あるタイミングで自分は、どうしようもなくなって、モンスターに手をかけてしまった。すごい気持ち悪さだった。演出上死んだように見えるだけで、本当は生きているんじゃないか、とか。なにかそれを取り返すイベントがあるんだ、とか思っていたけれど、モンスターは帰ってこなかった。当たり前のように話が進む。死は冷ややかだ。

 また逆に、友だちになれたときの笑える感じがたまらない。さっきまで、目を血走らせて襲ってきていたやつが、笑ってる。とぼけた顔が見れる。めちゃくちゃにふざけた演出がいっぱい見れる。なんかすげえな、このゲームって思う。誰かの特別になることって、かなり嬉しいことなんだな、と何か改めて思う。たぶん教育に良い。

 それで、モンスターの世界から人間の世界に帰るために旅をする。ぼちぼち楽しく、時々ひやひやしながら旅をする。そうして行き着く先のお城が、なんというかすごく良い感じに重い。話が綺麗にまとまる。誰も悪くないんだけど、戦おうか、みたいな感じの。歴史を踏まえると、戦わざるを得ない、みたいな感じの。一緒にお茶でも飲みたかったねといいながら戦う。そういうのがなんかね、強烈な何かを背負ってる感。すごくて良いね。しかも、それだけで終わらないものが詰まってる。

 絵作りとか、他の部分についてなんだけれど、正直なところ、グラフィックは全然たいしたことない。二十年前の水準。おじさんにとっては懐かしさを誘うものだけど、ほとんど白黒だし、綺麗とはいえない。それでも、遊んでいるうちに、十分良いものに見えてくる。黄色い花畑が、はてしなく優しさに満ちているように見えてくるし、強敵は、ため息が出るほど格好良くみえてくる。モンスターとたたかうときの、シューティング風のミニゲームも、然るべき試練のように見えてくる。音楽も良い。一度心が動き始めたら、全部ふさわしく見える。

 こぎれいじゃなく、こなれた感じもしない。だけど、十分魂みたいなのが詰まっている。だから、足すものも引くのもしなくていい。そんな感じの傑作。ただ、これが頂点、至高の作品だと言うつもりはない。絶対やっとけと言うつもりもない。ただ、記憶に残る宝物の一つにはなるんじゃないかなあと思う。

6/17/2018 2:33:26 AM

ホーリーランド

 近頃、体調もずっと悪くて「何が憂鬱かわからんけど憂鬱」という特異な状況で、欲しいものリストから掘り起こした漫画、ホーリーランド。最初はよくあるいじめられっ子の逆転物語かな、と思ったけどもっと暗くて。表に出したくないクズはたくさん出てくるけれども、ヤクザみたいに爛れてはいない、っていう。アウトローとかハードボイルドとかそういう言葉が当てはまるだろうか。その絶妙なところがよかった。18巻もあるのに定価でまとめ買いした。

 いじめられて家にひきこもっている少年が夜の街に出て、不良と戦う。主人公は、初めは奇襲パンチで勝つだけだったのが、強い奴の技を見て学習したり、アドバイスを聞いたりして路上の戦い方を極めていく。相手の技も柔道、レスリング、空手、剣道など色々な格闘技が出てくるので飽きない。経験が混ざりあって主人公はさらに強くなる。いろんな格闘技を合成したらどうなるのか、っていうのはロマンがある。それは、史上最強の弟子とか見たほうがわかりやすいけども。

 主人公の根暗さが強烈。いじめられて、ひきこもって、死のうと思って飛び降り自殺しようとしたけど、怖くて死ねなくて、家族から哀れみをかけられて生きている。そういう、居場所なく満たされない感じ。そういうところがわりと本物。ただ苦しいことから逃げたくて、本を読んだだけの素振りパンチを何千回もやる。そうして身につけたパンチを振るって、誰からも認められない自分がいても良い場所をつくる。それがホーリーランド。いじめられた、というところがスタートなので、憎悪とか復讐のために暴力を身につけるのが素直なんだけれどもそうじゃないところに妙がある。上手く言えないけど暴力で存在証明してるような。

 そして、兄貴分の男が本当に格好良い。顔が良いだけじゃなくて気転も利いて色々な場面で主人公を気にかけてくれる。路上の格闘も最強クラス。それでも不良をやってるのは、やっぱり居場所のなさを感じてるから。ボクシングで目立ってたら、上級生からリンチされて…。そういう屈折しているところも人間らしくて良い。最後に二人が手合わせするところはね、やっぱりこれかあ。これしか無いよなという熱さで。正直内容は覚えてないけど、技を出し合ってぶつかり合う姿が集大成に感じられてよかった。

 あと忘れてはいけないのが作者の謎解説。この漫画は何故かいきなり作者がでてきて格闘技の解説をしていく。ケンカで強い奴をいきなり狙うのはよくある間違いとか、ボクサーと空手家のパンチの違いとか説明してくれる。ナレーション風なのに、まいどまいど「作者の私見だが」とばっちり書いてあるところが何か潔くて良い。本当の格闘家から見れば違うところもあるのかもしれないけれど、素人見では筋が通っている。そんな感じで熱さがはみ出しているの、悪くない。

 自分は街が好きじゃないので、作品の中で「すべてを受け入れてくれる場所=街」みたいな描き方をされていて、街って連呼されるのが妙な感じだったけども、まあ不良ってそんなものなのかな。居場所のなさ、というのは非情に共感できて、今もなおそういう感じがする。皆が楽しんでいることや、当たり前にできていることが、できないという疎外感。もしもそれを、筋トレなり何なりに向けてたら、もう少しまっすぐな未来があったのかなと自分も夢を見たくなる。今更すぎるか。

5/27/2018 8:08:23 PM

説明は言い切りから始める

 誰も居ない休日の昼頃に家を出た。花壇からはみ出したツツジの花が、落ちて転がっている。少し歩いた。眠っていた畑が整えられ、いつの間にか麦畑になっていた。穂はまっすぐに伸びて青々としている。緑の匂いがする。容赦なく刈り取られた雑草が横たわっていた。中には、綿毛を飛ばし終えたタンポポがあった。

 僕は、何かを説明しようとするときは、どんな風に言い切るか検討する。誰かに「○○○って何?」と聞かれたとき「***だよ」と主題を与えるためだ。そこがうまく言い切れなかったら、だいたいの説明は六十点以下になる。

 例えば、最近勉強したブロックチェーンについて、言い切りを考えてみよう。ブロックチェーンとは何か。調べていると度々見かける「分散型台帳」という言葉を借りるのも悪くないが、まだイメージできない。

 こういうときには、単純化をしよう。飾りをはぎ落として丸裸にしよう。生まれたてのブロックチェーン、未成熟なブロックチェーンを想像する。手書きでやってるかもしれない。改ざんはされ放題かもしれない。それは何か。おそらく、そこには、誰から誰へお金を渡す、という取引が並んでいるだろう。それが、もともとブロックチェーンが表現しようとしていたものだからだ。

 式のように書くなら「ブロックチェーン=取引の列」となる。この式は数学的に不正確なだけでなく、多くの情報を欠いている。ブロックチェーンの登場人物「ブロック」という容器の話を置き去りにしている。それらが改ざんを防ぐための仕組みを持っていることも、ネットワークの話も、非中央集権という重要な考え方も、ビットコインとの関わりも一切触れていない。

 それでも「ブロックチェーン=取引の列」と書いたのは、それが入り口で核だからだ。取引から説明して、では安全な取引をするためにどのような技術を使っているか、という広げ方をすれば、落としている情報を後から回収できる。こんな風に「X=Y」の言い切りを持っていると、爽やかに話を進められる。「あれ? 何の話をしてたんだっけ」という霧に包まれることがほとんどなくなり、説明の筋道を立てやすくなる。よく聞かれることについては、予め準備しておくべきだ。たとえば、自分の仕事を聞かれた場合に備えて自社製品を言い切ることはできるだろうか。

4/30/2018 11:12:26 PM

天の邪鬼のいなし方

 あるときを境に寒さは消えて、桃と桜と梅の花が見られるようになった。日当たりの良い樹には若葉が出はじめている。畑の緑は蘇り、歩けば野鳥にも出くわす。何十回も繰り返してきた春だ。もう新鮮味など無いはずなのに、何かが始まろうとする空気は悪くないと感じる。

 自分が子供の頃、やりたくない事があるとき、その場で屁理屈をこねて反論していたように思う。天の邪鬼というやつだ。なぜ、そんなことになるのだろうか。そして、どのようにすれば解決するのだろうか。わかりやすくするために、いくらか脚色を加えて、過去の自分を思い出してみよう。

 小学三年生くらいのころ、両親は僕に向かって「塾に行ってみないか」と提案してきた。僕は、言いようのない恐怖を感じる。それは「塾という未知の場所に一人で行くのが怖い」という感情だ。しかし、強がりや意地が働いて、自分ではその感情を分析できない。

 なんとかして行きたくない理由をひねり出す。「本当にその塾でいいのか。詐欺じゃないのか」「塾に行くくらいなら自分で勉強する」「塾に行かなくてもテストで点は取れる」「塾でやることはどうせ学校でやるのと同じだ」と思いつく限り並べ立てて抵抗する。うんざりした両親は「天の邪鬼はやめて、とにかく言うことを聞きなさい」と一言。あとは嫌がる僕を車に押し込み、引きずるようにして塾まで連れて行く。そこで場面は終わりだ。その後泣いて暴れたか、従順に塾に通ったかはわからない。

 上の例から言えることは、天の邪鬼が強引な理由付けをするとき、それは隠れた本心があるということだ。それは自分の弱みを守るためかもしれないし、誰かを庇ってそうしているのかもしれない。そこには鍵がかかっている。特に、子供の場合は内面が見えない。

 そんなとき両親がやるべきことは、なんだろうか。試しに、屁理屈に付き合ってやるのが良いかもしれない。上の例なら、本当にその塾で良いことを証明する。他の塾と比較検討し、学校へ行くよりも優れた実績があるか調べる。加えて、テストの点には現れないような学力を身につけることの大切さを説く。こうして即席の理由をひとつひとつ潰していく。そうやって答えが出るまで粘り強く話をする。

 上のやり方は誠実ではあるけれど、あまり良いやり方ではないだろう。とてつもない時間がかかる。もっといいやり方は「いいから試しにやってみよう」と誘うことだ。他の塾より効率が悪いかも知れないし、行っても行かなくても成績に影響はないかもしれない。お金はかかるし、送迎が大変で迷惑をかけるかもしれない。成績が伸びなくて嫌な思いをするかも知れない。それでも「まあ、別にいいじゃん」と。だめだったら辞めればいいのだから。理論武装を解除するよりも、許す、どうでもよくさせるというやり方。ここまで譲歩されたら「それでも怖いからやだ」という本音を引きずり出せたかもしれない。それが、天の邪鬼のいなし方だ。

 こんな話をせずとも無理やり塾に引っ張っていったら、すぐに友達ができて全てがうまく行った、なんてことも起こりうるだろう。たぶん世の中にはそういう例もあふれている。だから子供相手には「とにかく強引にやる」というのが悪くないやり方なのかも知れない。それでも未来のことを思うなら、天の邪鬼をいなして、即席の理由に惑わされず、自分の感情を探る体験をして欲しいとは思う。

3/31/2018 11:59:00 PM

創作の糸口

 あれから冗談みたいな雪が降り続いて、道路も屋根も真っ白に染まった。氷の結晶が車のガラスに張り付いている。滑って尻餅をついた。素手で雪に手をついたら、痺れるような冷たさだった。そんな寒さが収まってきた頃、何かを作ろうと決めた。何度もくじけているから、決意と呼べるほどのものではない。忘れた頃にぶり返す持病みたいなものだ。とはいえ、ひとまず用意した白紙のノートを目の前にして、さて何から始めようか、ということを考える。糸口は、いくつかある。

 一つ目は、「馬鹿野郎」から始める方法。言い換えると、不満や怒りなど負の感情から辿っていく方法。たとえば昔、僕の父親は飲んだくれて大声を出したり、襖に穴を開けたりしていた。それが幼い自分にとっては恐ろしく、成長してからは忌々しく思った。絶対にこんな人間にはなるまいと強く思った。そういうとき、自分の正しさを主張したくなる。それを物語の発端にしよう。

 父を思い切りなじって、改心させるにはどうすれば良いか。これを課題とする。課題が決まると、その解決策を考え始める。答えを導くには詳しく課題を分析する必要があるだろう。なぜ酒を飲むのか。暴れる人と暴れない人がいるのはなぜか。暴れているということを自覚しているのか。医者の見解はどうか。同じような家庭はあるのか。物に振るう暴力と人に振るう暴力の違いは何か。飲む側の主張は何か。いくつかの話題があふれてくる。それらを握り固めて味付けをすれば、なにかそれらしい物語ができるだろう。

 二つ目は「既に面白い」から始める方法。昆虫、海洋生物、遺跡、有名人、趣味などを中心に据える。たとえば、マンボウについて。見た目が既に、面白い。何を食べてるのか。なんで平たいのか。天敵やライバルはいるのか。身体の中身はどうなってるのか。その細部を勝手に思い描く。なにせ、既に面白いので、書くことがなくて困ることはないだろう。それでも、ありふれているように思われるなら、少し面白い嘘を加えてみる。空を飛ばすとか、サイズをミクロにするとか、あるいはもっと大きくするとか、石の皮膚を持つとか、人語を理解するとか。

 面白い存在。そこに導くのを課題にする。鯨サイズで石の皮膚を持っているマンボウを登場させるにはどうしたら良いか考えてみよう。鯨サイズということは天敵が存在しないということだ。石の皮膚は過酷な環境から身を守るためだろう。たとえば砂嵐のような細かい粒が飛び交っている場所に生息しているのだ。そんな砂嵐の出るような地方には食べ物はほとんど無さそうだ。だから、ほとんど冬眠していて、光合成のような手段でエネルギーを得ているのかもしれない。寝ぼけた感じがマンボウに似合いそうだ。こんな雑な連想ゲームでも、まあ少しは舞台らしきものが姿を作り始める。そこで何が起きるのかはわからないが、既に面白い存在があるので、何かが動くだろう。

 こうして糸口を考えていくと、僕の場合は、何かを狙ってそこにたどり着くために物語を作る、という考え方をしているようだ。上では二種類しか挙げなかったけれど、それは願望だったり、苦しみを克服することだったり、何かを模倣することだったり、現実問題の置き換えだったりする。これと相反するやり方もあるだろう。どこへも行こうとしていない物語。ゴールは一切定めないが、とりあえず面白い方に転がしてみる、というアドリブ走法。夢のような脈絡のない物語。ずっと昔にはそういうやり方をしたこともある。

 古道具を取り出して悦に入ったところで、次は足場を作ってみようか。

2/28/2018 9:49:54 PM

雑感想「神の子どもたちはみな踊る」

 村上春樹の短編集を読んだので、いつにもまして雑な感想を書き並べることにする。

 最初は「UFOが釧路に降りる」から始まる。読み終わった時「は?」って感じのする話。何も起こらなかった。男が離婚して、傷心を癒すために釧路に向かい、女とホテルに泊まる。けれども、興奮できない。という、それだけの話。なんだこれは。打ち切り漫画より筋が通らない。好意的に解釈するなら、話の筋はまったく意味がなくて、話を構成しているパーツを眺めて楽しんでね、という狙いがあるのかもしれない。

 出鼻をくじかれたけれども、気を取り直して次の話「アイロンのある風景」安心。大丈夫これなら読める。むしろ好きだ。何が好きかって、焚き火の話をするところ。木を集めて火をつけるという、それだけの行為に秘められた特別さ。暖を取るとか、ゴミを燃やすとか、そういうことじゃない、かすかな特別。人が目を向けないものとじっくり向き合って、何かを引き出そうとする行為が、とても良い。

 次はタイトル回収の「神の子どもたちはみな踊る」これは、なんというのか、刺激が強い。いきなり、美人の母親が宗教に入ってもてはやされて、父親は不明。子供の方も母親に欲情して、それを抑えるためにセックスフレンドを探している。おちんちんが大きい、みたいなフレーズを惜しげもなく投入してくる。一歩間違ったらただの下劣な話になりそうなんだけども、それが不思議なもので、いつの間にか爽やかな方向へ収束している。凄い。

 後半を開くのは「タイランド」これは良い話だったと思う。三十歳くらいの女医がタイに行って、特別な運転手に出会う。死産でいろんな深い後悔と苦しみを抱えて生きている人が、紳士的な謎めいた運転手に導かれて、ゆるやかに立ち上がるという感じ。神秘的で、励まし力の高い作品。スピリチュアルやね。

 次も励まし力の高い「かえるくん、東京を救う」悪くない感じ。家に帰るといきなりカエルがいて「ぼくが東京を救うので、あなたはどうか僕を応援してください」みたいな感じのことを話す。何が良いかって、丁寧に「貴方が必要だ」と言ってくれるのが、ただ単純に嬉しい。「あなたが影でがんばっているのは知っています」みたいな頼み方をされたら嬉しいだろうね、本当に。という、それ以上のことはあんまりなにもなかった。でも、その暖かみは心に響く。

 最後の締めは「蜂蜜パイ」大学生のときからの友人関係だった三人なんだけれども、男女男だったために、ペアが出来てはじき出された主人公。売れない小説を書きながら希薄に生きている。その後ペアは離婚し、三角関係が動き始める。という昼ドラみたいな物語。「お前不幸ヅラしてるけど幸せやんけクソが」みたいな感じの嫉妬心をかきたてられた。そこに描かれる素直じゃない関係の幸せ、みたいものが光を放っていて、眩しくて溶けてしまいそう。

 まとめ。読む前に「この作品は阪神淡路大地震をテーマにしてなんたらかんたら」というレビューを見たせいで、少し身構えていたのだけれども、実際読んでみると震災、全然関係なかった。まあ、それは読みが浅いだけで、本当は深い何かがあるのかもしれない。でも、書かれてないことを読み解こうなんてのは、よほどの暇人しかやらないんではないかね。という皮肉はさておき、思ったよりもずっと楽しめた。短編集というのは、色々な話が詰まっているので、少なくとも一つくらいは好きだといえる作品が見つかる。今回で言うなら「アイロンのある風景」が一番好きだったかもしれない。でも、他の話も全く嫌いということはなく、どれも「ああこれは」と感じさせる部分はあったと思う。なんだ適当な感想だな…。とにかく、しばらく読むのことのなかった「村上春樹の作品って、こんなの」が言える材料を手に入れた感じがして、そういう良さを吸い取っていきたいと思う。

 余談。むかし村上春樹を何冊か読んだ時に「なんでこの人、勃起とかセックスとか唐突に出してくるの?」と思っていたけれども、やっぱりこの本を読んでも同じ印象があった。で、改めて考えてみると、それってやっぱりエンターテイメントなんだろうなと思う。性というのは普遍的に興味を引くものだから。ただ、村上春樹が特殊なのは、そういう性を日常に溶かし込もうとしているところかもしれない。自然体でいきなりエロいフレーズを使っていく、みたいなこと。逆に言うと、性に関することって、何で忌避されるのかって言いたいのかもしれない。

2/5/2018 11:11:11 PM

背理法と産婆術

 何日も雪が続いたが、ここは雪国ではない。積もった雪が日をまたぐことは稀だし、三日もすればかすかなものになる。いまでは、降り注ぐ雪の粒も、数えるほどしかない。花壇を見れば、葉牡丹が咲いている。淡いクリーム色と濃い紫のコントラストは、どこか大人びた印象があった。

 数学には、背理法というとても有名な証明方法がある。ある仮定から出発して矛盾へと導くことで、その仮定が成立しないことを示すものである。これは、とても意地悪な証明方法だと思う。なぜかというと「あんたの言ってることはたぶん間違いだけど、まあ正しいと仮定して話を進めてみようじゃないか」という文脈で使えるからだ。たとえば、ミステリーでは次のような問答をよく見かける。

(容疑者)「私は殺していない!」

(刑事)「ああそうかい。でも、そうだとしたら、誰が殺したっていうんだい?」

(容疑者)「そんなのは知らない!」

(刑事)「知らないって言ってもねえ。あの時間、アリバイが無かったのは、あんただけなんだよ」

 「容疑者が殺人を犯していない」と仮定すると、殺人可能な人物が存在しなくなる。しかし、被害者は殺された。これは矛盾している。つまり「容疑者が殺人を犯していない」という仮定が間違っているのだ。そういう論法である。やっぱり、意地悪な感じがしないだろうか。

 証明法ではなく、議論で相手を説得する方法として、産婆術というものがある。これは、議論を戦わせている時に、自分の主張を一旦引っ込めて、相手の主張を思うとおり喋らせるというものだ。喋りがなめらかになるように、出産に立ち会う産婆のように優しく接する。相槌を打ち、質問をなげかけ、強く否定しない。こうすることで、相手の主張の妥当性を探るものだが、見方を変えると相手が自滅するのを待つ意地悪な作戦でもある。たとえば、会社でベテランと新人が下のような会話をするかもしれない。

(新人)「電話番しろって言われたんですけど、事務員さんに任せるべきですよね」

(ベテラン)「うん? まあ、そうかもしれないね」

(新人)「電話慣れしてるし敬語も上手だから、印象も良いじゃないですか」

(ベテラン)「言えてる。でも、事務員さんも席を立つことがあるんじゃない?」

(新人)「それなら、次に電話慣れしている人、二番手がいればいいんですよ」

(ベテラン)「そうだね。とはいえ、二番手だって、トイレとかありえるだろう?」

(新人)「だったら、三番手も決めておけば安全でしょう?」

(ベテラン)「基本的には、そうだと思うけど、皆でランチに出かけちゃうかも」

(新人)「うーん・・・」

 結局、ベテランとしては、新人に電話番を任せたいのだが、直接的に「お前がやれ」とは言っていない。粘り強く議論に付き合っているように見える。しかしよく見ると、新人の主張をほとんど受け入れていない。その上、新人が電話番をやるべき理由を、一つも述べていない。結論ありきで、相手が折れるのを待っている。そう捉えると、意地悪なように見えないだろうか。

 どちらも「ぐうの音も出ない状態にする」技だと自分は考えている。それは、決して相手に良い印象を与えるものではない。知らず知らず、こういう技を使って相手をねじ伏せようとしてしまうことがある。気をつけよう。

1/31/2018 12:43:27 AM

雑感想「悪の教典」

 さて。悪の教典の話。これはどうも、気が乗らなくて読むのに3週間くらいかかってしまった。なんで気が乗らないかってそれは、主人公の蓮実聖司がとんでもないサイコパスだからだ。容姿や振る舞いは魅力的だが打算的で、他人を陥れたり裏切ったりすることにためらいがない。しかも頭も切れる。過去に数え切れないほどの人間を謀殺して逃げおおせている。教師でありながら学校に盗聴器を仕掛けて人間関係をコントロールしたり、生徒と肉体関係を持ったりやりたい放題だ。そんな奴の主観視点で話が進むのだから、気分が悪くなる。次はあいつが邪魔だとか、あいつを俺のものにするとか、こうすれば容易く信頼が得られるとか、そんな独白ばかりだ。どろどろの邪悪な内面を取り繕って、社会に溶け込んでいる。うまくいってしまう。そんな話が前半。そりゃあ、読んでいて疲れる。それでも読み進めていくと、後半は熱が入ってきた。

 蓮実は、とある問題を隠すために一人二人と殺人を犯す。それに気づいた生徒をも殺す。それを繰り返しているうちに、逃げ切れないと判断した蓮実は、とうとうクラス全員皆殺しを決める。四十人もの人間を、一人も逃さず、一夜で殺す。その困難さに、かえってやりがいを見出すあたり、相当狂っている。ヤバイ。今まで格好つけていたキザな色男が、壊れた殺人鬼になる。いや、もとより狂ってる感じはあるけども。

 そして生き残るために戦う生徒との攻防。これが一番のピーク。面白い。運動部の数人が逆襲に行ったり、待ち伏せをするアーチェリー部がいたりする。罠を仕掛ける生徒もいれば、自分が生き残るために閉じこもる生徒もいる。頭がおかしくなる生徒もいるし、蓮実を信じてあっさり殺された者もいる。とにかく人が死ぬ。冗談みたいに死にまくる。普通のテロとか銃乱射事件というのは、死傷者も多いが、逃げ出す人もたくさんいる。それなのに蓮実の檻からは、逃げられない。逃げれば殺されるという刷り込みといろいろな仕掛け。絶対お目にかかりたくないけれども、とにかく圧倒されて引き込まれる。

 なるほどこれがやりたくて400ページも前半読まされたのかと。たしかに、いきなり後半だけ読んでも、この急展開に馴染めないかもしれない。前半でじわじわ慣らされたものが、徐々に壊れていって最後に決壊するほうがそれらしい。けれどもしかし、全然気持ちよくはない。「早く終わってくれ!」そう思いながらどんどん読み進めた。これはなんだ。凄いけど汚れてるというか。道徳的にマズイ感じのこれは。ゲームやりすぎて犯罪犯すとかそういう説があるけれども、こういう小説のほうがよっぽど、どぎついんじゃないか。

 刺激さえあれば、何でもありなのかという疑問が湧く。マルキ・ド・サドの著書とか、発禁になるぐらい残酷で滅茶苦茶なエログロだと聞いたこともある。家畜人ヤプーとかあらすじ読んだだけで逃げたくなる。だから悪の教典は、まだ入門レベルなのかもしない。この本で起きていたことは壮絶でグロテスクだけれども、生々しさという点では、それほどでもない気がする。エンタテインメント感があるというか。最後の方は読者サービスしてるんじゃないかってところもあった。今まで容赦なく殺してきたのに、生徒と会話して、洒落を交えながら殺すとかね。

 ちょっと強引に話を戻してまとめると、悪の教典、面白い。けど人間らしさとかそういうのが無いので、自分は好きじゃない。でも、作品のパワーって言うかそういうものが凄まじいのは確かだ。ただの架空の話として「こんな奴いたら怖いよねハハッ」くらいに割り切って読めない。それぐらいガツンと来る感じ。評価を受ける作品というのは、こういう当たりの強さがあるんだろうなあと。自分で何かを書こうと思っても、どうしても踏み外すのが怖くなってしまうから、こういう話を書き上げる人は純粋に凄いなと思う。

1/14/2018 9:06:00 PM

飲み会で考えること

 霜の降りるあぜ道。マフラーで口元を隠した中学生とすれ違う。昔、通っていた弁当屋がいつの間にか消滅していた。ポスターや看板が消えて、制服を着た店員の姿もない。ただの建物になった。家に帰って掃除をする。左手の棚に、いつか作った星型多面体や、正八面体が飾ってある。余った折り紙で作ったものなので、色合いは悪い。写真を一枚だけ撮って捨てた。悲しいことに、ゴミ箱の中では鮮やかに見えた。

 最近、太ったと感じる。身体的にも精神的にもだ。酒を飲んで、うまいものを食って、好き勝手話して、わがままになって、げらげら笑って。そういう時間が増えた。今月だけで、四回も五回も飲み会に行った気がする。今まで、宴会に対して距離をとって冷めた目で見ていたけれど、うまく話ができれば、気持ちのよいものだとわかった。ただ、話が途切れていたたまれない気持ちになることがある。プログラミングの技術を磨くのと同じように、会話の技術を磨くことはできないだろうか。

 話すことがない時に、よくやっていたのは「何でもクイズ」だ。どこからでも良いので疑問を拾ってくる。たとえば「横断歩道は塗りつぶせばいいのに、縞模様なのはなぜだろう?」とか「なぜカツ丼はトンカツ丼ではないのだろう?」とか「鍋って料理なのに、具材を何一つ言及してないのはなぜ?」とかそんな具合だ。もし誰も乗ってこれなくても、自分が想像している間は楽しい。奇抜な回答が出てきて話が広がることもある。

 話を広げるために「今まで一番○○だった事はなんですか?」という質問を時々していたが、これはあまり良くない作戦だった。なぜなら、過去の体験から「一番」を引っ張り出すのはそう簡単ではないからだ。面白い話は出てくるかもしれないが、考えている間に話題が止まってしまう。たとえば、漫画が好きだと言っている人でも、不意に「一番好きな漫画」を聞かれると答えられない。「最近読んだ中で」という制限をつけてやるとまだ答えやすいが、それでもレスポンスは遅くなる。

 逆に聞かれる側の負担が少ないのは「週末は何をしてましたか?」みたいな質問だ。さほど面白みは無いけれど、思い出すのがたかだか一週間以内のことで済む。ここで、何らかのイベントが掘り当てられれば話は広がる。ただ、話題にする期間が短いので「家事をして寝てたら終わった」と空振りに終わることも多い。それでも、とりあえずはコミュニケーションが発生するので無難な一手だ。

 同席するメンバーが決まった時点で、注文や何やらの間に質問を準備しておくという手がある。たとえば、部長や社長が対面に座ったときは気楽になんでもクイズをするわけにはいかないので、仕事の新しい企画について聞いてみたりする。不満や相談事をぶつけるのも良い。出張から戻ってきたときは、出先の話を尋ねれば良い。取締役のような経営陣は仕事熱心なので、嫌な顔をされたことはない。

 さて、あれこれと考えてきたけれど、実のところ宴会に行くことには未だに抵抗がある。飲んで食べて騒ぐ楽しい時間があるのは事実だ。けれど、すべてが終わった後。恐ろしいほど醒めた気持ちで、暗い道を歩くその時間が慣れない。

12/31/2017 11:36:25 PM

​ 雑感想「正解するカド」

​ 正解するカドを5話までみた。政府の役人、ネゴシエーター真道の物語。異世界からやってきた二キロメートルの巨大なキューブに対して、日本政府はどのように動くかという話。でかいキューブが出てくるところはうおおっとなるがそこからはかなり地味な展開が続く。そんななかで呼び出される科学者の品輪博士という女の子が見ていて面白い。好奇心旺盛で早口に喋るが、言っていることの端々に知性を感じさせる。そしてCV釘宮理恵。良い。キューブに飲み込まれた人は生きているか、どうやって破壊するか、というあたりの流れるような分析・推論・実験のあたり、かなり好きである。まあそれは本筋じゃない。そういう尖った人物はこの話の中ではかなり異質、例外的な存在だ。他の登場人物は真面目で優秀な人たちがちょっとした人間らしさを見せながら、事態の収拾へ向けて力を尽くす。そういう意味でこれはやはり、シミュレーションなんだろうなあと思う。リアルならどうなるか、と言うところを考えて演じているシミュレーション。キューブの中から出てくるヤハクィザシュニナという異星人、これもまたかなり、なんというか慎重に造形されたキャラクターで、ぶっ飛んだ設定は見られない。ただ考え方、持っているテクノロジが人類をはるかに凌駕していて、一つ間違ったら世界が滅茶苦茶になるだろうなという空気を漂わせている。けれど彼自身は超然とした知性ある神様のように描かれている。もしかしたら「現代に神様がおりてきたらどうする?」という思考実験なのかもしれないね。ともかく話を破綻させるような人物は絶対に出さんぞという感じ伝わってくる。

 絵作りの話も少しすると、見た感じ3Dモデルを使った今時のアニメという感じ。たぶん手書きはしてないんじゃないかな。エンドロールにUnityの文字が出ていたからきっとキューブやその他の演出面でそう言った技術が使われているのだろう。キャラクターは総じて地味目だけどスッキリしててとても見やすく好感が持てる。萌え萌えしてないし、ファンタジーなのは異星人だけなので老若男女におすすめできる。オープニング映像はとてつもなく美しい。荘厳な音楽もいいし、歴史とか世界とか生物とかそういうものを象徴する映像の中に、キャラクターをそっと置いてるだけの映像が良い。動き過ぎず感覚だけに訴えてくる感じのそれ。予算なかっただけかな。でもこの映像作品に関してはピタリはまっている。タイトルロゴがどんと出てきたときにおおおっとなる感じは間違いなくある。

 で、面白いかどうかっていう話をすると、難しい。つまらないことはない。だけど、ハラハラする感じはあまりないよね。何とかなるだろう。何とかしてくれるだろう。というのが登場人物たちの人柄から読み取れる。それは現実ならとても良いことなんだけど、物語的には案外むずかしいところだ。ひとりヤバい奴がいて、話をかき乱してくれてもいいんだけどなあって思ってしまう。あと真道さん真面目すぎるのでロリコンとか犯罪者とか何か欠点ぶち込んでもいいんじゃないかな。まあそれは冗談としても、とにかく平和的に穏便に物事が進んでいく。一応、国連がゴネてざわつく場面もある。ヤハクィザシュニナとその技術を引き渡さないと、国連決議で経済制裁やら武力鎮圧をちらつかせるとか、そういう場面。現実的に見て深刻な場面を描いているのだろう。けれども何というか僕個人は、へえそうなんだと他人事に見ていた。国の危機というものに関してとても鈍感なのは大人としてダメなのかもしれないが、個人の悩み、苦しみ、情熱、怒り、喜びそういうものの方がぐっと引かれるんではないかなと想像する。だから「ヤハクィザシュニナって何? どうしたいの? どうなるの?」というところが焦点になってくる。それが知りたいと思ってる中で、ゆっくり慎重に周りの国も配慮しながら交渉していくって言うのは物足りない展開なわけだ。ただひとつ言えるのは、こんな風にあれこれ書きたくなるような話の材料としては優秀な作品ではないかなと思う。どんなに面白くても、ぱっと思いつくことが派手で面白かったねとかキャラ可愛かったねとかしか出てこない作品だってあるわけで、そういう作品とは一線を画している。薄味だけど知っていたらドヤれる感じの佳作だと思う。

12/17/2017 10:46:51 PM

夢と目的

 震えながら服を脱ぎ、着替えた。空気が冷えている。しかし、家を出てみれば、思いの外日差しが暖かかった。空は透明で、雲は形なく薄っすらとしている。駅のホームでは、日陰の寒さが堪えた。老いた夫婦が、わずかな日向を求めて歩いて行くのを見ていた。

 ほとんどすべての人は、子どもの頃「将来の夢は何?」という作文を求められたことがあるだろう。模範解答として、スポーツ選手とか宇宙飛行士、あるいは弁護士とか医者なんかがあげられる。しかし、そんな仕事に就けるのは、一握りの人間でしか無いことは小学生にだってわかる。だから、軽々しく将来の夢を言えない。一方で、公務員とかサラリーマンとか答えると、夢がないとか子供らしくないということで大人たちをがっかりさせてしまう。そういうわけだから「将来の夢は何?」という質問は、かなり厄介な質問である。だから自分の場合は「宝くじ一等を当てて旅をする」という夢を書いた。両親はこの答えを恥ずかしがっていたが。

 今になって思えば、大人たちの反応や、実現できるかどうかは、夢を考える材料として適当ではなかったと思う。夢には眠っている間に見るものと、起きている間に見るものとの二つがあるが、眠っている時に見る夢は、脈絡のない、目的もない幻だ。だから、起きている間に見る夢も、それで良いのではないかと思う。実現できなくてもいいし、実現する気がなくてもいい。単に思い浮かんで、もしそうなったら面白そうだと思えるもの。自分の環境や余計な情報を取り払って、ただ面白そうなものを選べばいい。誰かの期待に答える必要はない。それは目的を定めることと似ている。

 目的という言葉は小学生でも書くことができるし、よく耳にする言葉だが、それをうまく使うのは非常に難しい。目的と手段を混同してしまうことが多い。たとえばあなたの住んでいる街の市長が「橋を作ろう」と言い出したとしよう。この場合、市長の目的は橋を作ることではない。橋を使ってどこかに行きたいという欲求があって、それを満たすために「橋を作る」のだから、それは手段である。

 市長は「手付かずの鉱山を開拓するために、橋を作ろう」と、言い換える。すると、目的は「鉱山を開拓する」ことになる。鉱山を開拓するだけなら、必ずしも橋でつながっている必要はない。船で行けるのかもしれないし、迂回路が有るかもしれない。行くのが難しいようなら、そこに移住してしまうという手も有るだろう。だが、市長は無意識に「橋」という手段を選んでしまった。

 手段の議論が盛り上がったとしても、実は本当の目的は隠れている。なぜ鉱山を開拓する必要があるのだろうか。実は、市長は無意識に「鉱山を開拓する」という手段を選んでいる。鉱山を開拓するのは、商売をしたいとか、何かの材料にしたいとか欲求があってのことだ。それを考えて言い換えると、市長は次のように言わなければならない。「市を豊かにする一案として、鉱物資源を使った事業を始めたい。手付かずの鉱山があるから、そこを開拓する。まずは経路を確保するために橋を作ろう」結局、市長の目的は「市を豊かにする」ことだ。橋を作ることでもないし、鉱山を開拓することでもない。

 さらに目的をさかのぼることもできる、市を豊かにするのは自分の名誉のためであったり、市民の幸福のためである。だから真の目的は「市民の幸福」だと言うこともできる。しかし、このような過剰な抽象化はほとんど意味がない。ほとんどすべての行為の目的が「自分の幸福のため」だからだ。食事をとるのも睡眠をとるのも、仕事をするのも目的は自分の幸福のため。こんな風に、言うまでもない話で氾濫する。

 また、目的が練られないまま「橋を作る」でスタートしてしまうと、思いがけない悲劇が起こる。橋を作るだけで予算を使い切ったり、鉱物資源の重量に耐えられない橋が作られてしまったり、本来やりたかったことが満たされないまま事業が終わる。だから、目的と手段を混ぜないようにするのが良い。夢もたぶん同じことが言える。どうやって実現するかは一切考えずに夢を決める。その後やりたくなった時に手段を探せばいい。

11/30/2017 12:00:00 AM

再利用することから

 大小の雨が重なって休日に出かける予定が三度流れた。挙句に二度も風邪に捕まった。マスクを付けて迎えを待っている間に、公園の樹を見つめた。半分以上雨に落とされうつむいた葉は、赤いすべり台、青いブランコ、黄色い鉄棒などカラフルな遊具に馴染む黄葉混じりになっている。人影はなかった。

 プログラミングで最も重要なことの一つは「再利用する」ということだ。解決したい課題が同じならば、前使ったプログラムをもう一度利用する。課題に少しの違いが有るなら、パラメータ設定やカスタマイズ可能なプログラムに書き換えて、再利用する。大きな課題を解決するシステムを作るときでもそれは変わらない。ライブラリやフレームワークといった、すでに誰かが作りうまく動作した実績のあるプログラムを利用する。理想的なプログラミングの形は、一行も書かないことだ。

 この発想を広げて、繰り返し行われる仕事を、なんでも再利用することを考えてみるとどうだろうか。たとえば、学校の授業。高校の先生はクラスをあちこち移動しながら、同じ授業を行う。同じ内容を黒板に書き、同じ説明を声に出して読む。たまに出てくる面白いエピソードだって、クラスが違うなら使いまわしても問題ないだろう。この仕事を再利用できないだろうか。

 どうせ再利用するなら、教えるのが上手で聞いていて面白い先生の授業が良い。いくら流しても劣化しないし、何年たってもそう多きな変化は生じないだろうから、やがて、数学の授業をする先生は世界にただ一人、伝説的な録画が残るだけになるかもしれない。ドラマチックで面白く、わかりやすく洗練され、応用の可能性を示唆するもの。それを越えようとする教員たちを集めて、大企業が映画みたいに何億も予算をかけて収録する。それを、世界中の高校生がヘッドマウントディスプレイを付けて、ノートを取りながら見る。そのうち「この先生が面白い」みたいなレビューがあふれかえる。富裕層だけの高価な「生授業」とか、政府非公認の「闇授業」なんてのも生まれるかもしれない。授業の極端な画一化に反対する一派も現れるだろう。生徒に選択肢を与えて分岐する動画が生まれるかもしれない。あまり過激なのは年齢制限が付くかもしれない。授業というものがエンターテイメントになる。

 情報化が進む世界は、今なぜそうなっていないのだろう。学校の個性がなくなるから、習慣上できないから、人の温かみがないから、学力の違いが有るから。まあ、雑な理由を上げてもしかたがない。いまここでは、無責任な空想のほうが面白い。

10/31/2017 12:00:00 AM

何のために勉強するの

 シダの隙間に濡れたヒガンバナを見かけた。花弁と花心はいずれも血のように深い紅色で、葉は一枚もない。この攻撃性を感じさせる奇妙な花は、思いの外生命力が強いのかもしれない。植えた覚えもないのに庭を侵略し始めている。

 最近、ゲームをするのを少し控えて、勉強するようにした。ふと、子どものような疑問が浮かぶ。勉強するのは何のためだろうか。まず思いつくのは、勉強したほうが、仕事を探す上で有利になるということだ。

 勉強しなかった場合は、良い仕事を見つけることが難しい。なぜかというと「自分にできる仕事」が「誰にでもできる仕事」になってしまうからだ。誰にでもできる仕事は、働き手がたくさんいる。働き手よりも仕事のほうが少ない。働き手は、少ない席に座るために、多少の悪い条件には目をつぶらなければならない。

 勉強した場合は「自分にできる仕事」が「勉強した人だけができる仕事」になる。勉強した人だけができる仕事は、働き手が限られている。働き手よりも仕事のほうが多い。働き手は、数ある仕事の中から、好きなように選ぶことができる。

 ところが実際には、勉強といっても、実際の仕事とは直結しない勉強も多い。たとえば、中学校の数学で習う台形の公式を、そのまま使う仕事があるだろうか。おそらく、ほとんどない。子どもがなぜ勉強をするの? と聞きたがるのも、もっともな話だ。大人はたぶん、こんなふうに答える。役に立たないと思われていることは、基礎である。それらを組み合わせ応用していくことで、現実的な問題や社会で求められる能力につながっていく、だから役に立たないことも学ぶべきだ。

 きっとそれは正しい。けれど、ここではそれとは別の言い方をしよう。勉強にはある種の気持ちよさがある。できなかったことが、できるようになる、という快感がそれだ。ゲームで例えるとわかりやすいかもしれない。歯が立たなかったボスを倒せるようになる。失敗してばかりだったステージがクリアできるようになる。思い当たることがないだろうか。それがわかったなら、役に立つか、立たないかなんて、どうでもいいことに気づくだろう。楽しいからやる。気持ち良いからやる。それだけでも事足りる。ごはんを食べるのも、誰かとおしゃべりして笑うのも、必要があってそうしているわけではない。役に立つからそうしているわけではない。勉強もそれと同じで、楽しく生きて行くための選択肢の一つだ。しかも、楽しいだけじゃなく将来有利に働く。こんな話をしたら、勉強したくなってくるんじゃないだろうか。いや、そんなことはないか。

9/30/2017 11:02:03 PM

かっこよくなりたいと思って生きている

 スズムシの鳴き声。鳴き声という言葉でしか形容できないのが悔やまれるほど繊細な音。全力で叫ぶセミとは対照的だ。伸びた雑草が足のすねに触れる。白い繊維質に包まれた、珍しい格好の花が咲いているのを見つけた。ほつれかけた造花のような姿をしている。調べたところでは、カラスウリの仲間のようだ。秋には実をつけるようなので、また様子を見てみよう。

 しばしば、人はどこに向かっているのか、何になりたいのか、という話を考えさせられる。僕はずっと、かっこよくなりたいと思って生きている。ここで言う「かっこよさ」とは、必ずしも容姿のことを言わない。信念であるとか。思想であるとか。見えないものを含む。

 たとえば将棋の羽生名人は、寝癖を気にしないらしく対局中も髪がはねたままになっていることも多い。この頃は老けてきて、ずいぶん白髪も増えている。けれども、将棋が強いというのはそれだけでかっこいい。攻防を兼ねた妙手。自玉を投げ捨てる紙一重の戦い。そういうものを生み出す知性を損ねるものはない。

 漫画で言えば「うしおととら」の主人公、蒼月潮はとてつもなくまっすぐだ。だれかがいじめられていたら、まっさきに助ける。ぼろくそに傷つきながら、裏切られても仲間には手を出さない。好きな娘のために溶岩に突っ込んでいく。自分にふりかかる理不尽よりも他人のために怒りの声をあげることができる。まっすぐであることは間違いなく一つのかっこよさだろう。

 「金色のガッシュ」では、キャンチョメとフォルゴレの二人組が気に入っていた。フォルゴレは「チチをもげ」という馬鹿みたいな歌を真面目にうたえるほどの道化でいながら、誰にも負けない不屈の心を持っていた。キャンチョメはどうしようもないほど臆病で貧弱だった。それでも、その臆病に引きずられながらも仲間や友人のために戦うことができる勇気を持っていた。馬鹿なところがあっても、臆病であっても、かっこよくなれるのだと教えられる。

 漫画やゲームの世界を眺めるなら、書ききれないほどの「かっこいい」を挙げることができるだろう。けれど、現実の中にもさりげない気遣いやふるまいの中にそれは潜んでいる。風で倒れていた未知らぬ自転車を、無言で引き起こしていた柔道部の彼。人の欠点を自分の悩み事のように話し、気づかせようとするクラス委員。すべてがそうだとは言えないが、学校の先生や父親もまた、そういう面を持っていた。

 ここに書いてきた「かっこよさ」というのは言い換えると美徳に近いかもしれない。けれど、美徳というには普遍性に欠ける。何をかっこいいと思うかは僕だけしか知らない。

8/31/2017 11:15:23 PM

ワークライフバランス

 梅雨の解けない鬱陶しい初夏にも、蛙と鈴虫の鳴く涼やかな夜がある。しかしそれも嵐がやってきて、一瞬で終わってしまった。昼まで寝ているつもりが、暑さにうなされて目が覚めた。偶然通りがかった子供神輿のかけごえが聞こえる。可哀想にと思うのは、不当な決めつけかもしれない。冷たい麦茶を一杯飲んで、扇風機の電源を入れた。また眠くなる。うとうとしていたが、今度は自分の動悸で目覚めた。こんなに嫌なまどろみは久しぶりかもしれない。

 いま勤めている会社では、数ヶ月に一度、社員が集まって一時間ほどのワークショップをする。人生の満足度や、それを満たすためにやりたいこと、十年後の自分について等をメモする。その後、五人のチームをつくり、その内容を共有する。この活動をする理由はよく覚えていないが「良い仕事を続けていくには人生を楽しむことが必要だから」ということだったと思う。グループを作るのは、普段会話しないメンバーと接する時間を増やして、連帯感を高めようという狙いがあるのだろう。何度か繰り返してきて、いくつか思う所があったので、ここにまとめておく。

 まず、人生の満足度を測るために、ライフバランスホイールと呼ばれる図が使われた。まず、円を六分割してできた扇をそれぞれ仕事、家族、友人、健康、娯楽、精神という六つの観点に割り当てる。そして、六つの観点から見て、どの程度人生に満足しているかに応じて扇の大きさを決める。すると、総合的な人生の満足度、そして満足度の偏りがわかる。

 だが、実際に作業してみたところでは、このやり方は不確かだと感じた。たとえば、健康の観点で考えてみる。僕は腰を痛めたり、寝不足だったりして、決して健康ではない。理想から外れているので不満足だと言える。ただ、少し考え方を変えると運動していないわりに年相応の体重を保っているし、健康診断で大きな問題が見つかったことはない。こうしてみると、まあ満足だとも言える。そういう揺れがある。満足は考え方によって引き出すことができるので、どうにでもなってしまう。

 疑問を感じながらもワークショップは続く。ライフバランスホイールを参考にして、満たされない部分を埋めるような「やりたいこと」を探して、それを書き並べる。優先度をつける。最後に、その中から今後挑戦することを一つ選んでグループに発表する。この体験で気づいたのは「やりたいこと」を選ぶのは難しくないが、発表のしやすさは異なるということだ。

 誰が聞いても共感できることは発表しやすい。たとえば「健康のため体脂肪率を減らしたい」や「自分の家を持ちたい」といった話はありふれていて誰でも共感でき、発表しやすい。また、共感はできないにせよ「日本社会に影響を与えるような良い仕事をしたい」というような理想論は、恥じる所が無いので発表しやすいだろう。

 一方で僕のやりたいことは非常に言いづらかった。「小説を書きたい」というそれだけなのだが、一拍置いて決心しなければ発表できなかった。恥じる理由を一言で言うなら、幼稚に見られるだろうと思ったからだ。もっと具体的に言えば、オタクが自身の欲望を投影した物語に閉じこもろうとしている、と見られるのではないかと恐怖したからだ。いっそ伏せておけばいいのだが、このワークショップを何度も繰り返している中で、やりたいことをいつも秘するというのは、それはそれで居たたまれない気持ちになる。そのような葛藤の先に「小説を書きたい」ということを発表したが、特段何の反応もなく終わった。蔑まれるよりは断然ましなのだが、拍子抜けだった。

 発表しやすさの格差に不公平を感じる。たとえば同性愛者が本当に「やりたいこと」を公にするときは、これよりももっと苦しい葛藤があるだろう。共感されず、差別される恐れ。それらを避けて、二番目か三番目にある当たり障りのない「やりたいことを」引っ張り出すのも手だ。ただ、心に背いたまま満たされるもので、満足できるかどうか疑問は残る。果たしてどれくらいの人が、後ろめたさのない時間を過ごせているのだろう。

 上のようなことを考える暇もなくワークショップは終わった。人生の満足とは何か、やりたいことは何かを探究することは興味深いことだ。そういう意味で、このイベントの理念は納得できる。とはいえ、ゴールに近づいている気がしない。ライフバランスホイールや「やりたいことリスト」のような道具はあるにしても、それを使って前に進む力がない。参加者は誰もが悩める人だ。一時間では込み入った話はできない。そもそも、このテーマは一企業が受け止めるには重すぎる。参加している社員も、特別な何かを期待しているわけではない。「よかったね」あるいは「残念だね」と感想を述べることは出来ても、それ以上先へ踏み込むには繊細すぎる。そんな、もやがかかったような時間は、どこにも到着せず終わる。

7/31/2017 11:00:00 PM

動く人になりたかった頃の話

 深夜、蒸し暑さに目が覚めて、ずっと閉めっぱなしだった窓を開けた。公園の街灯が黄色い光を放っている。虫の声はまだ聞こえない。草木の葉ずれの音が聞こえてくる。ふと家の樹に目が止まった。こいつは、こんなに大きかっただろうか。幹は腕の太さほどしかないのに、二階建ての家と同じくらいの背丈になっている。

 大学最後の年、それから社会人になってからの数年は、幸運なことにいろいろな誘いがあった。だから、その波に乗って、ボルダリングとか、バーベキューとか、合コンとか、モンハンオフ会とか、技術者の勉強会とか、自動車の免許を取るとか、いろいろと挑戦してみた。彼女を作って、いわゆるリア充になれるかもしれない、とそんなことを考えていた。毎週予定が入っていたときもあったような気がする。

 結果を言うと、やはりというべきか、リア充にはなれなかった。もともとゲームばかりしていて引きこもっていたので、お洒落な店や知らない場所に行くと体が震えて、いやな汗が止まらなかった。女性と話が合うこともなかった。イベントが終わると一人、劣等感で悶えた。とはいえ、悪いことばかりでもなかった。会社の人とはずいぶん話ができるようになったし、純粋に面白いと思えることも多かった。誘いかけてくれた人が、うまくことを運んでくれたからだろう。

 人には、自分からどんどん動いて周りを引っ張っていける人と、待っていて引っ張られるだけの人がいる。動く人は相手を選ばす誰でも誘うことができるのに、待つ人は動く人がいないとなにもできない。それが、劣っていることのように思えた。待つ側である自分を恥ずかしく感じていた。変わらなきゃいけないと思って必死だった。

 ところが今は、そういうことが全く気にならなくなってきた。その理由はまだ、よくわからない。時間が過ぎて志がしぼんだのだろうか。それとも諦観を得たのだろうか。残念ながら時間がたりないので、今日はここまで。

5/31/2017 10:30:56 PM

自分で言葉を薄めてしまうこと

 毎日会社へ行く時に、近所の庭木に咲いているアセビの花を眺めている。小さな壺型の白い花を鈴なりに垂らしていて、ひと目でそれと分かるのに何年も気づいていなかった。桜のように華々しく咲いて散るものではないからだろう。よく調べてみると、アセビではなくてドウダンツツジというよく似た花だった。あまり区別する必要を感じなかったので、アセビと呼ぶことに決めた。

 後輩を叱って「こうしたほうが良いと思う」とアドバイスした事がある。あまり落胆させないように何か慰める言葉を探したが、良い言葉が思いつかなかった。たとえば「ドンマイ」とか「気にするな」というのは違う気がする。気にして欲しいから指摘した。気にされなかったら困る。「たいしたことじゃないけど」「些細なことだけど」とかいうのも違う。問題を小さくしたいわけじゃない。「人によって考えが違うから」とかは自分のアドバイスを自分で否定しているので、最初の意図に反する。結局何も言えないまま終わった。慰めるのではなくて励ます言葉が正解だったのかもしれない。「がんばれ」というだけでよかったのかもしれない。

 そんな風に僕は、何かを言おうとするとき、それは正しいのだろうかと自問する。反論を予測できたり、自分の主張にミスや例外を見つけたりできるからだ。しかし、マイナス面もある。何かと考える時間をとるので、動きが鈍くなる。判断に時間を要する。加えて、絶対に正しいという確証が得られるまで、主張をぼかすようになる。結果、説得力が弱まる。しょっちゅう「勘違いかもしれないんですけど」で話始めたり、話を終えるときに「まあ、いつもそうとは限らないですけどね」とか「個人的にはそう思いました」などという言葉がつく。そういうのが口癖になっていると、格好悪いなあと、ふと気づいた。

 会社で一番下っ端のときは、いくらでも自分を卑下してよかった。むしろ、先輩や上司の顔を立てるのには都合が良かった。しかし今は、五年も同じ会社に勤めて、自分より年下の後輩たちが何人も入社してきている。その中で、自信の無さそうな発言、保険をかけてばかりの発言をしていたら、説得力にかける。三十歳も過ぎたし、そろそろ、自分で言葉を薄めるようなことはやめにしよう。

4/30/2017 4:13:33 PM

表現不能なものを褒める

 椿の花が落ちていた。花びらになって散るわけではなく、まるで切り取ったように、根本からぽとりと落ちていた。調べてみると、それが自然の振る舞いだということがわかった。気がつけば、梅の花も散っている。部屋着を一枚減らした。灯油を使い切るために、ストーブをつけっぱなしにしている。

 ゲームがはかどらないので、いつもより早く動いた。風呂に入って、髪を乾かして、歯を磨いた。日付が変わるより前に、これで一日が終わりだという気持ちになった。それでも、眠くはないので、あてもなくヘッドホンをつける。何かと戦っている歌を聞いて、寂しくなる歌を聞いて、明るくなる歌を聞いた。何番目かに掘り起こした曲の中に「たった1つの想い」という歌があった。こんな歌詞で始まる。

たった1つの想い貫く 難しさの中で僕は
守り抜いてみせたいのさ かけがえのないものの為に 果たしたい 約束

 こんな詩なのに、声は優しげだ。訴えるわけでもなく、叫ぶわけでもない。困難に対する無力感と諦め。それでも対峙するという決意。それに慣れてしまった虚しさ。擦り切れた中でも屈しないしたたかさ。そんな風に、語られてもいないものを連想させられた。

 いくらか書き並べてみて、やはり音楽はわからないと思った。気持ちいいとか格好良いとか、感想を言うことはできるけれど、そのように感じさせた音を表現する単語がない。演奏と歌が流れている中で、何が起こっているのかわからない。料理と同じように。旨いと言うことはできても、そこで何が起こっているのかわからない。絵を見たときもそうだ。

 わからないのに、良いものだと語りたい。そういう時に人は、物語を与える。いつ、どこで、どんなとき聞いたか。どのようにして作られたか。たとえば、無農薬で育てた野菜を使った料理だとか。失恋したときに聞いた曲とか。物語は特別な意味を与える。歌の良し悪しや、料理の旨さとは関係がないのに。

 こんなに不完全な情報のなかで、自分にあうものを見つけられるのは、奇跡的なことかもしれない。

3/31/2017 10:29:24 PM

余計なお世話

 休日に早く目が覚めたけれど、なにもすることがなくて、ぼんやりしていた。座椅子の上で毛布にくるまっていると、睡魔がやってくる。テレビの音が遠い。これは昼寝すべきだと思った。雀のさえずりに、斜めに差し込む日差し。よれた毛布を直して布団に潜り込むと、すぐさま眠りに落ちた。

 「余計なお世話」という言葉がある。たとえば、自分が太っていること気にしていて、色々試したけどどうしても直せない、そんなときに事情を知らない知人から痩せたほうが良いよ、等と指摘されたりするのは、余計なお世話だ。これまでの事情や、自分の趣味嗜好を知らない人物が、知ったふうな口を聞くのは、実に腹ただしい。親しい人から余計なお世話をされて、失望することもある。

 僕自身もよく、余計なお世話だと感じることがある。つい先日もコードレビューの際に、嫌な気分になった。自分が苦労して書いたプログラムの欠点を暴き出される。その批判が正しいかどうかよりも、ただ自分の努力を蔑ろにされた気がして、ただただ不愉快になる。文章だけでやりとりしているときは、なおさらだ。

 だが、苦労して書いたプログラムに限って、ろくでもないプログラムであることも多い。試行錯誤した痕跡が残っていて、コンピュータに余計なことをさせていたり、遠回りをさせていたりするからだ。レビュアーのしょうもない小言や首を傾げるような指摘が、見落としていた核心を突いていることもある。

 だから、余計なお世話だと思ったときこそ、注意深くならなければならない。拒絶の言葉を吐き捨ててシャッターを下ろすのではなく、高ぶった感情が静まるのをじっと待つ。それから、相手の立場になってみる。大抵の場合、相手の真意は挑発でも皮肉でもなく、単なる親切心だ。そういう人を冷たく突き放すのは、大人げないことだ。

 ここまで考えていて、気づくことがある。余計なお世話だと思ったことは多々あるが、余計なお世話をしてしまった、加害者になってしまった、と感じるのは稀だということだ。それはたぶん、気づいていないだけなのだろう。何気ない場面で、助言のつもりで、人を傷つけている。罪深いことだ。

2/28/2017 10:19:17 PM

決められない事と直感と理屈

 目を覚まし体を起こしてみると、カーテンの隙間から雪景色が見えた。この冬では初めてのことだ。外へ出ると、隣の家の垣根に使われている広葉樹が雪をかぶって、しな垂れていた。空気は冷たいが風はなく、雲は晴れて太陽は明るかった。通り過ぎた電車が突風を吹かせて、雪を舞い上げる。珍しく明るい冬だった。

 昔のことを思い出すと、よく迷う子供だったと思う。いつも、レストランでメニューを決められない。「なんでも良い」だの「わからん」だの「さあ?」だのとはぐらかしていた。親が代わりに選んでくれるのを待っていた。お菓子を選ぶときも服を選ぶときも、特に何も考えず、自分で選ばなかったような気がする。当時からゲームの大好きな少年だったが、ゲームショップでさえ、よく迷った。親に車を出してもらって、欲しいものを一時間も決められず、結局手ぶらで帰るということもあった。正月にもらったお年玉は、一円も使わずに親に渡していた。節約のためではなく、買うものが決められなかったからだ。

 昔、森博嗣のエッセイに「服を買うときは値札を見ないで買う」と書いていたのを読んだ。成金の冗談にも取れるが、もちろんそんなことが言いたかったわけではない。自分にとって価値があると判断したら、それを買うべきであって、バーゲンだとかセールだとか、ポイントがどうとか、他人から見て似合うかどうかとか、そんなものを気にする必要はない、と言いたかったのだと思う。値札を見ないのはやりすぎだが、自分が欲しい思うものを、手に入れるのが良い。

 なるほど。そんな風に直感で物事を決めていくのは格好良い。しかし、直感だけに頼っていたら、選択が不安定になる。これだと確信を持って選び取ったものが、今日は色褪せて見える。誤りだったかもしれないという不安と後悔に襲われる。直感とは、力強い言葉のように聞こえるが、実際には脆い。信頼できない。

 そこで理屈を使う。直感に理由を添えてやる。なぜそれを選ぶか、ということを自分に説いて聞かせる。そうすれば選択は安定する。同じ問題が出てきたときに、同じ考え方でものを選ぶことができるからだ。「どうしてそんなものを選んだの?」と変人扱いされたとしても、それにはこういう理由があるからだと跳ね返すことができる。

 直感に理屈を添える。これを繰り返しているうちに、どんな選択に対しても、それを支える理屈を作り上げることができそうだということに気づく。たとえば、夢を追いかけるべきか、サラリーマンになるべきかという選択。夢を追いかければ、たとえ失敗したとしても後悔はないだろう。だから夢を追いかけるのが正しい。そういう理屈がある。一方で、成功するかどうかもわからない世界に飛び込んで散るよりは、安定した収入が得られるサラリーマンになって幸福をつかむほうが良い。そういう理屈もある。さて、どちらが正しいだろうか。

1/31/2017 9:27:57 PM

歳を重ねて

 年末の懇親会を終えてからは、家でじっとしていた。去年プラモデルを組み立てたことを思い出す。特別な喜びはなかったが、どこか厳かで徳が高まるような気がした。今年も静かに、何かを組み立てるのも良いかもしれない。膝にかけている毛布を目当てに、うちの老猫がやってきた。普段はベタベタしない猫なのだが、この時ばかりは別らしい。

 二〇十六年で、三十歳になった。ずいぶん長く生きてきたなと感心する。幼稚園や小学校のことは殆ど覚えていないが、それでも二十数年の記憶がある。中学校であったこと。高校であったこと。大学であったこと。大学院であったこと。就職してあったこと。僕は行事には消極的だったので、ドラマチックな思い出は皆無だが、それでもいくらかの楽しい思い出がある。写真は撮らない主義なので、卒業アルバムもぞんざいな扱いである。何一つ残っていないが、切り取って飾っておきたくなるような、美しい時間もあった。もちろんその逆に、辛い思い出もある。

 僕のように、消極的に生きてきた人間でさえ、積み重なった時間がある。テレビやインターネットで暇をつぶしてばかりの両親にも、長い人生の思い出があるのだろう。機会があれば、聞いてみるのも良いかもしれない。どんなに話が合わなく見えたって、年齢という重みは、話題を与えるだろう。

 大病を患って以来、おとなしくなった父を見て、彼の人生はもう、あとは緩やかに死ぬだけなのだろうなと感じる。寝転んでテレビを見て笑うことが日課になっている。何かを練習するとか、勉強するとか、作り上げるとか、日々積み上げるものがない。衰えるばかりで、成長がない。平均寿命を考えれば、あと十数年は生きられるだろうから、盆栽でも何でも、新しいことを始めれば良いのにと思う。

 まるで、生涯成長し続けることが義務みたいな書き方をしてしまった。成長を求めるかどうかなんて、ただの好みの問題だ。成長すること以外にも、きっと生きがいがあるだろう。よく言われるのは、子供や孫の成長を見ること。自分から何かを働きかけるのではなくて、ただ変わっていく姿を愛でる。それを一番の楽しみとする。そういう生き方。自分ではなにもしないというのが、ちょっとずるい気もするが、子を育てきった親の特権として、それくらいは許されるだろう。子供のいない老人は、もっと考えをふくらませて成長していく会社、業界、社会を見つめるのを老後の楽しみにする。そういう手もありそうだ。

12/31/2016 10:04:37 PM

感謝しているか?

 紅葉が進み、秋の服では、耐え難いほどになってきた。キーボードを叩く指先が冷たい。暖房はつけていない代わりに、たくさん重ね着していているのだが、それでも足りない部分がある。ついさっき淹れてもらった温かいはずのお茶も、冷たくなっていた。

 Daigo The BeasTV という番組がある。プロゲーマーの梅原大吾が twitch で配信している番組だ。近頃は、これが毎週の楽しみになっている。特に、前回は一風変わっていて面白かった。

 最近活躍し始めたアマチュアゲーマーの「えいた」が、どうやったらプロになれるのか考えるという企画だった。彼のチームメイトは企業のスポンサードを受けて、プロゲーマーの肩書を手にしたが、彼だけは未だフリーのままである。

 怪しげな神父の衣装をまとったウメハラは、えいたに問いかけた。どうすればプロになれると考えているか? 企業がプロに求めているものは何か? えいたは、観客が盛り上がるような魅力的なプレイをすれば、いつかは…と言葉を濁す。ウメハラは首を横に振り、それでは視野が狭すぎる、と切り捨てた。彼は、今の世界ではどんなにゲームが上手くてもプロになるのは困難だと言った。

 ウメハラは言った。野球の世界で 160km の速球を投げればプロへの道は開かれるだろうが、ゲームの世界ではそれはない。業界が整備されていないからだ。じゃあ何があればいいのか。たとえば、イケメンならすぐプロなれる。ゲームがそこそこでも、ジョニー・デップならプロゲーマーになれる。テクニック以外の強みを見つけなければならない。

 それからウメハラとえいたは、プロになれそうな強みをひとつずつ探して挙げていった。学歴、英語力、容姿、若さ、ツイッターのフォロワー数、人脈、トークのうまさなど。ウメハラは、これらは二つの要素にまとめられると言った。

 一つは、イメージ。もう一つは影響力。この両方が高い人物を企業は求めている。学歴や容姿はイメージ、ツイッターのフォロワー数や人脈は、影響力に関わっている。プロゲーマーになりたいなら、イメージが良くなること、影響力が上がることだけをすればよい。特に、プロゲーマーは影響力が大事である。求められるのは、すごいなあと遠目に思わせるだけではなく、他人を行動させるほどの影響力だ。

 そして、そんな影響力を持つには、どんなに学歴が高く、英語ができて、イケメンで、若くて、ツイッターで人気があり、トークがうまかったとしても、ダメだ。それだけでは、むしろ、嫌味なやつになるかもしれない。影響力を持つのに、ただひとつ重要な事がある。それは何か? ウメハラは尋ねるが、えいたは答えられない。

 ウメハラが出した答えは「コミュニティ愛」あるいは「コミュニティに対する感謝」だった。ウメハラが強くそう感じたのは、ある路上シンガーの振る舞いを見てからだという。

 あるときウメハラが、路上で耳にした歌手の声に聞き惚れて、最後まで聞いていた。その後、彼女が CD を売り出したので、並んで購入した。しかし、その時の態度が良くなかった。彼女はウメハラと顔を合わせることさえしなかった。最後まで歌を聞いた数少ない客に対して。

 そんなふうに感謝がなかったら、自分のことばかりで完結していたら、誰もついていこうと思わないだろう。たぶん、プロゲーマーになりたいと言っている人たちに欠けているのはそれだ。

 そんな話を聞いて、僕はすごく驚きうろたえた。お前は自分のことばかりで、人に感謝していないのではないか、そう問われた気になったからだ。

 実際、今勤めている会社に対して、感謝を欠いているように感じられた。会社に対して労働するのは、給料が払われるからだ。求められる以上の仕事をする必要はない。そう考えている。そこに感謝はない。もちろん、悪意があってのことではない。単純で、わかりやすいからそのように解釈していただけだ。

 この日記でさえもそうだ。内向きの何かを発散しているだけだ。自分のことばかりで完結している。周りを見ていない。だから、他人を動かすことができない。誰かに慕われるということがないのだ。そんな自己批判が思い浮かぶ。だが、それを跳ね返す理屈は出てこない。

 何かを改める必要がありそうだ。誰かに向けて感謝をしようとか、ボランティアをしようとか安易なことではなく。プロゲーマになれるような影響力を持ちたいわけじゃない。だが、自分に対する批判を見つけて、それを放っておくのは不安になる。

11/30/2016 10:16:24 PM

二十数年越しに将棋を学ぶ

 風邪を引いた。弱った体で俯いて歩いていると、キンモクセイの花が散っていた。見上げると生きた樹があった。爽やかな香りがする。

 少し将棋の話を書く。初心者(僕)の考え方が、どのように変化してきたかということを整理してみたい。駒の動かし方を覚えたのは小学校一年生くらいの頃だ。兄や叔父の相手をさせられるが、一勝もできず、負けて泣いていた。それからさっぱり触ることがなくなって、年に数回、父がしばしば見ているいる NHK の将棋トーナメントを横から見るだけだった。解説を聞きながら、プロの指す手に関心しながらも、何か超越した世界の出来事として認識していて、自分も将棋を指したいとは少しも考えなかった。

 それから会社で、こんな動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25024123)を教わった。わかりやすく、ためになる良い解説だと感じた。これを機に少し、将棋を指してみたいと思った。今まで知らなかったことを覚えて、かつての弱さを跳ね返すことができそうな予感がしたからだ。

 この動画ではまず「有利になる行動」をはっきりさせている。一つは、相手の駒を取る(もしくは、弱い駒を犠牲にして強い駒を取る)こと。もう一つは、自分の駒を成ること。この2つが有利になる行動だということは、改めて考えてみれば当たり前のことなのだが、それを狙うと良い、ということはルールに書かれていない指針である。将棋は「王を取れば勝ち」という最終目標は明確だが、そこに至るまでの過程は白紙である。この「有利になる行動」が白紙を埋める手がかりになる。

 初めて将棋に触れたときのことを思い浮かべると「とりあえず大きく動ける飛車、角が強い。とにかくそれを前に押し出す」という感覚でゲームを進めていたと思う。この中間目標は、守られていない駒を脅かすことはできるが、それ以上王手に結びつくものではない。ある程度形が進むと、いたずらに飛車を右往左往させるだけで、相手の陣地を崩せなかった。

 飛車や角の利きを広げるというのは、実のところ「有利になる行動」の一つではあるけれど、それ一本では脆い。すぐに達成できる目標だから、次なる目標が必要だった。たとえば、銀を援護に出して、どうにか飛車が「成る」ことを目標にするなら、棒銀を発見できたかもしれない。今そういう発想を持てるのは「自分の駒が成る」ことが有利だと知っているからだ。

 「有利な行動」は何か、という知識をさらに応用すると、攻め方だけではなく、守り方もなんとなくわかるようになる。なぜなら「有利な行動」は「相手にさせてはいけない行動」でもあるからだ。つまり、自分の駒が取られることや、相手の駒が成ることを避けるのが、守りの手である。駒を取られないように、しかし相手の駒を攻めなければならない。

 ここで、プロ棋士の対局動画をいくつか眺めてみた。飛車、桂馬、銀を中心とした右側を攻めに使い、余った金と左陣地を守りに使っていた。なるほどこの形が良いのかと納得した。矢倉とか穴熊の形を覚えた。そういう形があるのは知っていたけれど、さっぱり覚えられなくて不要だと思っていたけれど、なぜこの駒組みなのか、ということを知っていると、不思議と覚えられるようになった。

 実際には、紆余曲折あってこれほどすんなり理解したことではないし、僕自身の棋力はたいしたことがないのだけれど、こんな風に、勝つための発想が、ひとつながりに成長していると考えると面白い。中盤や終盤の考え方はまた違った手がかりが必要だし、訓練を積み、知識を蓄えないと勝ちは遠いけれど、明らかな成長を得た満足感はある。

10/31/2016 12:00:00 AM

人生とプラスとマイナス

 三十歳になって、酒を飲んだあと、いま生きている理由や、何を望みながら暮らすだろうということを考えた。何のために生きるのだろう。家族のため。血統のため。会社のため。社会のため。国のため。人類のため。誇りのため。趣味のため。日常の喜びのため。どれもしっくり来るものはない。

 執着のあるものについて考えると、僕はゲームが好きだ。人生の半分くらいの時間をそれに費やしてきた。しかし、ゲームのために生きているとは考えていない。面倒でゲームをしたくないと思うこともある。仮に、ゲームが遊べなくなったとしたら残念だが、絶望するほどでもない。

 直感的には、生きる目的はないように感じる。目的がなくても、生きているだけで、それなりの楽しみがある。大きな苦しみが降り掛かってくることもあるけれど、プラスとマイナスの総量が、ゼロ以下になっていると感じたことはない。実は、そこそこ幸福なのかもしれない。

 そんなことから、話は少し飛んで、プラスとマイナスのことを考えた。

 人は、プラスになる事は進んでやる。マイナスになることは避ける。たとえば、美味しいご飯を食べて満腹になることや、漫画を読んで楽しむこと、これらは誰もが進んでやるプラスの行動である。マイナスの行動とは、たとえば転んで怪我をする、溝に落ちて靴がずぶ濡れになる、といったことである。このような行動を自ら進んでやる人はいない。

 ところが、現実の人間は、ある種のマイナスの行動については頻繁に選択している。たとえば、会社に向かうため満員電車に乗る。暑苦しい、臭い、窮屈でろくなことがない。明らかなマイナス行動だが、それでも多くの人は満員電車に乗り込む。

 それは、将来を予測することができるからだ。電車に乗らなかったなら仕事に出れず、上司から叱られるだろう。信頼を失い、職を失うかもしれない。それは満員電車に乗ることよりも、大きなマイナスである。

 予測することは、将来のプラスを取るのにも役立つ。たとえば、魚釣りは池にいる全ての魚を捕まえない。なぜなら、生き残った魚が繁殖して、次に来たときも魚が取れると予測しているからだ。もし、全部の魚を捕まえてしまったら、一時的に大きなプラスが得られる代わりに、将来釣れる量はゼロになる。

 予測は外れることもある。繁殖できるように残しておいた魚が、他の漁師に根こそぎ釣り上げられてしまうかもしれないし、病気にかかって全滅してしまうかもしれない。

 それさえも、経験すれば予測できるようになる。他人が荒らさないように予め柵を立てることができる。魚が病気になってないか予防の検査することができる。コストは大きくなっていくが、未来のマイナスに備えて対策を立てられる。どれくらいコストを払うかは、マイナスが起こる可能性の高さ、量によって変わっていくだろう。

 マイナスを減らし、プラスを増やすには、予測すること、比較することが大切なのだろう。どの選択肢が、どの程度のプラスを、どの程度の確率で生み出すのか。そこから一番良い物を選ぶ。外れても次の手を打つ。こんなことを考えるのは、最近カードゲームをしているせいか。

9/30/2016 9:23:04 PM

どうぶつの国

 何度も寝返りを打った。深夜四時半をすぎてもまだ、眠気が来る気配はない。仕事をしている日中はただひたすら眠いというのに。感覚の狂った身体にうんざりする。もう朝だということにして、身体を起こすことにした。真っ暗な中に、コオロギ達の耳触りの良い鳴き声が聞こえている。布団に入る前から聞こえていたから、四時間以上も鳴き続けていることになる。人間だったら、もう話し疲れてぐったりしている頃だ。彼らが鳴いているのはコミュニケーションのためではないのだろうか。

 連休の間に、どうぶつの国という漫画を読んだ。動物と話すことのできる主人公が、人のいない弱肉強食の世界で生きていく物語だ。この話の面白いところは色々あるけれど、弱いものが強いものに殺される弱肉強食の理不尽さ、そして、それに対する怒りが強烈な印象として残っている。重いテーマを抱えながら、所々ギャグも交えられていて、なんというか雷句誠らしい感じがした。楽しく読みながら心動かされる名作だったと思う。

 ところで、冷静になって考えてみると、どうぶつの国にいる動物たちは、人間に近い感情を持ちすぎているのではないかと思えた。もちろん、動物にも感情はある。うちの猫だって、嬉しいとか悲しいとか単純な感情を持っているのはわかる。けれど、たとえば、子供や仲間を思いやる気持ち。理不尽に訪れた死に対する怒り。守れなかったことへの後悔。そういった感情は、人間以外に見られない感情ではないだろうか。言葉についてもそうだ。犬の鳴き声には何種類か異なる意味を持つものがあるというけれど、主語と述語を使って文を組み立てることはできないだろう。

 彼らが人間に近い生き物であることは、その容姿にも当てはまる。作中で主人公の家族となるタヌキたちは、着ぐるみを着た人のような姿で描かれている。ヤマネコやオオカミ等その他の動物の姿は、人としては描かれていないが、タヌキだけは明らかに様子が違っている。主人公と深い関わりがあるキャラクターは、感情移入させるために動物の姿にしないほうが良い、という作者の意図があったのかもしれない。

 上のような疑心を抱くうちにどうぶつの国に対する見方が少々変わってきた。すべての動物が仲良く暮らす平等の世界を築く物語。理想論を突き進む物語だと思っていた。しかし、全ての動物が人間寄りに脚色されているなら、人間と人間に近いものたちが仲良く暮らすようになっただけで、真の意味で動物と人とが平等の世界を築いたとは言えないのではないか。そんなふうに思った。物語として見応えをもたせ、感動的なドラマを生むために、虚構をかぶせている。作り物だ。

 そんな当たり前のことを今更指摘しているのは、それだけ没入感があったからかもしれない。実際に読んでいるときは、まやかしだとかこれっぽっちも考えていなかった。絵の迫力に飲まれて、ただただ主人公たちの信頼関係や、熱い戦いに心を揺さぶられていた。十分楽しんでいた。だから、その評価を貶めることはない。ただ、動物と人の間には、感情や言葉で埋めることがままならない差があるはずだ。理想の世界にひたるだけではなく、あるがままの世界も知っていきたいと思う。ナショナルジオグラフィックでも、見てみようか。

8/31/2016 10:00:00 PM

時速二キロメートルの散歩

先日、ポケモンGOがリリースされた。普段、ゲームの話題がない社内でも、半数以上の人が遊んでいるらしい。僕もインストールしてみたが肌に合わず、レベル四で足踏みしている。外へあちこち出歩く習慣がないからだ。その上、自宅の半径一キロ程度にはポケストップが一切なく、ポケモンが出る気配はない。

それにしても、気が遠くなるような熱さだ。蚊の侵入を防ぐため、窓は一切開けていない。しかも、この部屋には冷房がない。これは外に出たほうがましだ。そう考え、サンダルを履いて外に出た。珍しいことだ。運動や気晴らしが目的ではない。少し歩こうとして立ち止まる。通勤と違って、荷物もない。目的もない。遠出をする靴でもない。セミが一斉に鳴いている中で、どこで鳴いているのか、なぜ鳴いているのか、この暑さ、風、空の色など、夏を初めて経験する宇宙人のような気分になった。だから、目に止まったことをいつもより多く書き留めることにした。

すぐ側の家に目を向ける。枝を丸刈りにされすっかり生気を失った庭木。その隙間にはびこるクモの巣。セミも寄り付かない。どっしりした庭石が隠れてしまうほど雑草は伸びるままになっている。窓もカーテンも締め切られて人のいる気配はない。その場を離れて、畑と田んぼに囲まれた、いつもの道へ顔を出す。風にそよぐイネ。迷い込んだ小さなチョウ。脇にはエノコログサ。白い花をつけるヒロハホウキギク、紫色の花をつけるアレチハナガサがそれぞれひとかたまり。

柵越しに見えるカラフルな保育園の遊具。誰もいない。セミが遠くで鳴いている。少しスズメのさえずり。遠ざかるサイレン。左手でバッタが跳ねる。朽ちかけたヨモギ。ニラ科と思われる植物。歪んだガードレール。まだ緑色のススキ。人の背ほども伸びたセイタカアワダチソウ。その他、よくわからない植物の塊。ここに住み着いた時から変わっていない。おそらく二十年近く人の手が入っていない。おぞましいほどの密度。圧力。すぐ側の電柱を支える電線にまで何かのツタが絡む。

ふいに視界に入る黄色、あるいはオレンジ色のトンボ。ウスバキトンボだろうか。目が悪くて見えないが、少し仲間を連れている。水田。優しく水が流れる音。木の板で水の流れる量を調整している。どこからどこへ流れているのかわからないが、出口はここだとわかる。道を挟んで反対側に、雑草と野菜の混じる惨めな畑。ペットボトルを加工した手作りの風車。さらにその奥に国道とガソリンスタンド。背景には深緑の山。鉄塔がポツリポツリと並び、少し隠れて反対側の斜面まで続いている。

トンボが集まってくる。ふらふらとしてすぐに散る。彼らの羽が太陽の光を反射する角度が一瞬だけある。踏切の遮断機のリズム。大型車通行禁止の標識。涼しい風が抜けていく。イネがそよぐ音。用水路。ジャンボタニシの赤い卵塊。ときおり、不意に水が跳ねて波紋が立つ。目を凝らすとオタマジャクシの姿。あちこちでゆっくりと、親指ほども大きさがあるジャンボタニシが動いているのに気づく。ユスリカの蚊柱。木の水門を渡る蟻の行列。虫に食われた痕跡のある雑草。葉に痣のような斑点。その中に、場違いに大きく派手な黄色い花。ユリの仲間だろうか。スズメより一回り大きい、白黒の小鳥。おそらくシジュウカラと思われるもの。眺める間もなくホップしながら飛んで行った。アスファルトで干からびた哀れなミミズ。

すれ違う人の手に日傘。頭に麦わら帽子。また遮断機のランプが点滅した。何かのイベント用にペイントされた電車が走る。空の真上から重い音。全てを無視して縦断する飛行機。どこからかカラスの鳴き声。十七時。トンボが増えている。水田の上。二十か三十か、羽のきらめきと不安定な飛び方でそれとわかる。もぞもぞ動いているジャンボタニシが思いの外多い。すぐ側を見ただけで五、六匹はいる。

しばらく水田とトンボを眺めてから、同じ道を帰った。わずか二キロ程度の道のりで、一時間近くかかった。散歩と呼ぶにはあまりにも遅すぎる。少し汗が引くのを待って、名前の知らない雑草や動物の名前を調べた。見つかったもののほとんどが帰化植物で、良いものとは見られていないことがわかった。十年数の時を経て、ようやく名前を知ることができた。驚くほど、物事を知らない自分を知る。社会に疎いどころか、自然にも疎い。

名前以上にもっと、その生き物は情報を持っている。今日すれ違ったトンボが、どこからどこへいくのか。手触りはどうか。羽の模様はどうか。幼虫はどうか。何を食べるのか。夜どうしているか。知らない。植物も同じだ。ただそういうものがある、ということを知っているだけだ。どうやって増えるのか。どのように成長するのか。葉の形はどうなっているか。知らない。

7/31/2016 12:00:00 AM

俺に働けって言われても酉

一言で言うと

冒険者ギルドを経営することで、主人公の抱えた借金を返済していくゲーム。

あらすじ

あなたは、家に引きこもって生活している。家賃の支払は滞り、膨大な借金を抱えるようになった。ある朝、あなたの住むあばら屋へ大家の娘マクラツムが訪れた。働こうとしないあなたにうってつけの仕事がある、と彼女は提案する。こうして、冒険者ギルドの経営者としての道が開かれた。

ゲームの流れ

  1. 契約金を払って、冒険者を雇う。冒険者によって職業や性格が異なる。
  2. 冒険者を草原、森、山、地下迷宮、洞窟、廃墟などのダンジョンに派遣する。
  3. 冒険者はダンジョンの植物や鉱石を採取したり、モンスターを倒したりする。
  4. 冒険者が持ち帰った戦利品を受け取る。それらを売却することで収入を得る。
  5. 特定条件を満たすと、モンスターを討伐した報奨金を得ることもできる。
  6. 月末に冒険者へ給与を支払う。また、同時に借金の返済と家賃の支払いを行う。
  7. 最初に戻って繰り返し。冒険者は解雇しないかぎり契約は継続する。昇給の陳情も頻繁に飛んでくる。

おもしろいところ

普通のRPGと大きく違っているのは、冒険(上の節で言う所の3番目)でプレイヤーが一切干渉できないこと。だから「冒険の前準備」に力を尽くすことになる。装備を整えさせたり、モンスターの弱点を調べたり、冒険の方針(アイテムを探し優先 or モンスター討伐優先)を決めるのに時間を使っていく。

冒険者はサポーターを含めて、最大八人で一つのパーティーを組む。パーティをたくさん組めば、複数のダンジョンを同時攻略することができる。ここで全体の計画性をもって割当を決めていくのが面白い。たとえば「海底神殿」という最先端の難しいダンジョンには、利益を度外視して戦力を集中したエース部隊を向かわせる。育成中の部隊は比較的易しい「太陽の森」へ連れて行く。全体で赤字とならないように「ロイヤルガーデン」で高収益のモンスター狩りを行う。そんな配置ができる。そこには、マネジメントしている感覚がはっきりあって、そこが味わいがあるところだなと感じる。

このゲームを攻略していく上で、なにが重要なのかということを考えていた。一番大切なことは「利益が出る」ということだと思う。もちろん、遊び方は人によって自由だから、それが唯一の答えではない。けれど、僕はこのゲームの肝はそれだと考えた。RPG で遊んでいたら利益が出ることを必死に考えていたなんて、実に面白いことだと思う。その視点で進めていくと、他のゲームではあまり見かけないプレイングが見られる。

  1. 成長したら解雇(昇給しすぎてコストに見合った働きができなくなる)
  2. 新米に重たい仕事(給与が安いので使い倒す)
  3. ドラゴンライダーのタクシー(移動コストを減らせる。成長させると給料が上がるので育てない)
  4. 死ぬまでダイヤ採掘(飛び抜けて高収益。それ以外の仕事は与えられない)
  5. 騎士一人旅(防御力が高いので一人で冒険できる)
  6. 魔法使い一人旅(攻撃力が高く全体攻撃を持つので被弾せず冒険できる)
  7. 乱獲されるボスモンスター(高収益。特に、お供がいるフェンリル等)

実のところ、初回プレイでは借金まみれになって、立ちいかなくなってしまったのだが、それもまた面白い経験だったなと感じる。最初は一度限りのボーナス(ボスモンスターの討伐ボーナス、ダンジョンの地図完成等)があるため、雑にプレイしていても黒字になる。しかし、ボーナスが枯れてしまうと、赤字になる。また、使えない冒険者だなと感じながらも、義理と人情で雇い続けていると費用がかさんでいく。そうして少しずつ赤字が広がっていく。借金の利息分さえ払えなくなったら、もう立ち直る事はできない。

ストーリーはやや平坦な気もするが、終盤には見どころがある。借金を返済した後、どこへ行くのか、どうなろうとするのか。ということを少しだけ考える。引きこもりという立場の主人公設定だと、暗く鬱な展開になりそうなところだが、明るく痛いところに触れないように、茶化してくれる大家との関係がとても良いと思う。

まとめ

収益に関してシビアな判断を突き詰めていくのが面白かった。他では経験できないマネジメントのおもしろさがよく出ているゲームだと思う。

6/30/2016 12:00:00 AM

植物の葉による拡大再生産

曇りや雨の日が続いた。変わらないことは数えきれないほどあるけれど、変わったことも多かった。上着を羽織る必要がなくなった。畑が二つ潰れて、駐車場を作る工事が始まった。踏切近くの家から不慣れなベース音が聞こえるようになった。小雨の日に、一匹だけ、確かな蛙の声が聞こえた。何キロも離れた鉄道から聞こえる電車の音が、悪くない事に気づいた。目に見えるものや、聞こえてくるもので、まだ注意払っていないものが無数にある。

百円ショップで購入した観葉植物を育てて一年近く経つ。たいして世話を焼いているわけでもないのに、順調に成長していて、一株だったのが半年で三株に増えた。もう新しい芽が出始めていて、まだ増えるつもりらしい。半年ごとに3倍になるとしたら、次の半年で9個になる。次の半年で27個になる。

植物は遠慮も慎みもなく枝葉を伸ばす。光を目一杯受けるために、隙間なく葉を広げる。光を受けた葉は、その力を溜めて新しい葉を増やす。その循環は、拡大再生産を行っていると言ってもいいかもしれない。どれくらいの速さで成長していくだろうか。1枚の葉っぱが100枚に増えるまでにかかる日数 D を考えてみよう。

1枚の葉っぱが1日光を浴びて得るエネルギーを 1leaf と定める。また、2枚目の葉を増やすのに必要なコストを x と仮定する。

最初は、たった1枚の葉っぱしか持たないとしよう。その植物が x 日間光を浴びると x leaf が貯まり、2枚目の葉が生まれる。2枚の葉があるときは x/2日 で x leaf が貯まり、次の葉が生まれる。

このことから、100枚目になるまでの日数をD(100)と書くとき、その値は下の式で表すことができる。

D(100) = x + x/2 + x/3 + x/4 + x/5 + x/6 + x/7 + x/8 + x/9 + … + x/99

通分して計算することもできるが、簡単に解くことはできないので概算する。
n 番目の項 1/n に対して 1/n < 1/2^p を満たす最小の p を選び、(1/2)^p で置き換えた値は下記の式を満たす。

D(100) < x + x/2 + x/2 + x/4 + x/4 + x/4 + x/4 + x/8 + x/8 + … + x/64

D(100) < x + (x/2 + x/2) + (x/4 + x/4 + x/4 + x/4) + x/8 + x/8 + … + x/64

上の式で 1,2,4,8,16,32,64個の項の和が、それぞれ x になることから D(100) < 7x と結論が出る。最初の1枚目、始まりの葉が7枚目の葉を生み出すときには、もう全体で100枚の葉っぱが生え揃っているということだ。

1000枚ならどうだろうか。同じように計算すると D(1000) < 10x となる。始まりの葉が10枚目の葉を生産したときには、1000枚めになっているということだ。

そもそも光だけで葉を生み出すエネルギーを得ているわけではないし、枝を伸ばすのに使うコスト、葉っぱの寿命や維持するのにかかるコストも考えていない。数値のお遊びではあるが、植物が爆発的に広がっていく姿が見えるような気がしないだろうか。

5/31/2016 12:00:00 AM

チェインクロニクル第二部を終えて

 家の二階にいると、スズメの声が聞こえるようになった。あまりに近くから聞こえるものだから、窓から顔を出して調べてみた。ちょうどエアコン裏の壁から小さな影が飛んでいった。配管が通っている穴の隙間が、住処になっているらしい。どうしてそこに落ち着いたのかわからない。小学生が、秘密基地をつくるようなものだろうか。今のところ被害もないので、静かに見守ることにした。

 チェインクロニクルというゲームがある。ここ二年の間、毎日少しずつ遊んできた。そのメインストーリーが、ようやく終わりを迎えた。長い旅を終えたような、空っぽな気持ちになっている。今後もイベントや何かしらの続編が出るらしいけれど、その気持は変わらない。

 それは、ファンタジーという文脈では、そう珍しくもない物語だった。旅を通じて多くの人と出会う。その土地にはその土地の文化がある。魔法を研究している三つの塔があったり、鍛冶の得意な種族が棲む地下迷宮があったり、戦いを好む鬼の棲む島があったり。他にも、森に囲まれた世界樹の図書館があったりする。どの作品でも見かけるような、ある意味使い古された場所だ。それでも、きっと楽しいことがあるだろうと感じさせる魅力が詰まっている。美味いものは何度食べても美味い、ということかもしれない。

 二部になってからも、物語の構成はそう変わらない。各地で人助けをしながら、よい関係を築いていく。けれど、そこに棲む人々が、より濃く創作的なものになっていく。住人のほとんどが囚人と看守で構成されている罪の大陸。半獣人の一族が棲むケモノの大陸。大人に成長する前に寿命を迎えてしまう短命な一族が暮らす薄命の大陸。人体を機械化したほうが身分が高いという文化を持つ鉄煙の大陸。どの大陸にも、個性的な面々が集まっていて、それぞれが抱えた問題がある。冒険するにはうってつけの場所ばかりだ。

 終盤では、世界を滅ぼそうとする黒の根源に立ち向かう。強大で、会話の通じない絶対的な悪。明らかな虚構だ。けれど、やっぱり、それが良いのだ。理不尽に強力であるほど、それと対峙する勇気が際立つ。戦って心が痛むような敵でないほうが、良い。そこにプレイヤーの気持ちは乗る。二年旅をした仲間と最強の敵をぶっ倒す。これで、興奮しないわけがない。ああ、これってRPGだよな…としみじみ感じた。FF6とか、クロノトリガーとか、テイルズオブデスティニー2とか、サモンナイト3とか、ペルソナ3とか。挙げればきりがないけれど、そういう感じの熱。いろんな、たくさんの側面があって、語り尽くせないものがある。でもやっぱり、その熱だけは外さず書いておこうと思った。

4/30/2016 12:59:45 AM

不満を分析する

 我が家ではまだ、たびたび暖房をつけているが、日中は少し暖かくなってきた。梅の花が咲いているなと気づいた頃には、隣の庭にも赤い花が咲いていた。残念ながら、名前は知らない。田畑もずいぶんと賑やかになっている。白詰草でいっぱいになっているものもあれば、芝生のような青々とした草が敷き詰められているものもある。菜の花だらけの場所もあった。寝かせている土地に勝手に生えてきたのか、植えているものなのかは知らないが、色々な草花が元気をとりもどしているのは確かなようだ。

 春の気候とは対照的に、自分自身はあまり良い調子ではない。特に、色々事情があって、今勤めている会社に対して不満を抱いていることが大きいのかもしれない。あれこれと考えてみたが、あまりうまい解決策を見出すことができていない。もやもやするなかで、不満そのものの性質、捉え方を考えてみた。あまり良い成果は出ていないが、他に書くこともないので、少しまとめておきたいと思う。

 不満とは満たされないことだ。何らかの理想に対して、現実がそうではない時に生まれる。たとえば、給料が低いとか、残業が多いとか、上司がうるさいとか、そういった何気ない不満のなかにも、理想と現実がある。

 考えやすそうな「給料が低い」という不満を例にして詳しく見ることにしよう。まず、理想について考えてみる。「給料が低い」という言葉を裏返すと「給料が高い」という理想があることがわかる。だが、どのくらいだと給料が高いのか、というものさしは人によって異なる。理想とする給料が年収一千万の人もいれば、自分の衣食住が足りる程度で十分だという人もいるだろう。

 次に、現実について考えてみる。「給料が低い」というのも主観的な意見なので、これも人によって異なる。愚痴をいう時は特別考えたりしないものだが、アルバイト並に低いとか、一ヶ月の生活費より低いとか、自分の友人の給料より低いとか、何か思い浮かべていることがあるはずだ。月収○万円と具体的な数値を出すよりも、何と比べて低いのか、ということを見つめるほうが理想とからめて考えやすい。

 こうして不満の要素を分けることで、どう立ち向かうかということが捉えやすくなる。不満を取り除く方法はおおまかに2つある。現実を理想に近づける努力をするか、理想を諦めて現実を受け入れるか、どちらかである。「給料が低い」の例では、収入を増やして現実を上げるか、支出を減らし理想を落とすか、ということになる。ここから、もっと具体的な案を出していくとよい。

 ひとつ注意するべきことは、現実について、あまり広く見過ぎないようにすることだ。たとえば「給料が低い」という現実の背景には、覆し難い事実がある。日本が不景気だから、給料が低い。確かにその通りかもしれないが、不満を抱く個人が解決すべき問題では無いはずだ。自分の給料を上げることが理想なのに、日本が好景気になることを理想だと取り違えてはいけない。果てしなく不確かで、遠回りの道になるからだ。最近話題になった「保育園落ちた日本死ね」の人についても、ずいぶん大変な方法を選んだものだな、などと感じた。そういう人が社会を動かすのかもしれないが、個人の不満を解消するのはずっと先になるだろう。

 あれこれと話を書いてきたが、実際に不満を述べる時は、本当に解決したいというよりは、単に共感して欲しいだけのことも多い。しかし、共感を得ることで和らいだ不満は、そのうちまた膨らみ始める。共感を求めて不満を吐き出すのも悪くはないが、腰を据えて不満と向き合うほうが良い結果をもたらすと信じている。

3/31/2016 12:14:09 AM

勇気について

 天気の悪い日が続いた。雪や雨にふられて、濡れながら走るような日が何度もあった。どうにか晴れた日も、外に出ると霜が降っていたり、刺すような冷たい風が吹いていた。どれだけ重ね着をしても、顔だけは寒さに耐えなければならない。顔を守るとしたら、銀行強盗がつけていそうな覆面でも買えば良いのかもしれない。正面から吹き付ける風に目を細めながら、そんな妙なことを考えた日もあった。

 少し前に、海猿という漫画を読んだ。海難救助に参加する青年の話だ。生死に関わるドラマを単に描くだけではなく、海賊や不審船なんかの現実問題も絡めてあり、なるほど知らない世界だと感心させられた。それ抜きにしても熱くて良い漫画だと思う。特に印象に残っていたのは勇者の話だ。「怖いもの知らずだから勇者なんじゃない、怖いけど勇気を出すから勇者なんだ」というようなことを言っていた。大したことじゃないけれど、勇気が必要なときにこのことを思い出す。たとえば、親しくない人に話しかけてみようかと迷う時。会議で反対意見を主張しようとする時。言いたいことがあって、けれど言わなくてもなんとかなる時。そういう時に「怖いけど勇気を出す」という言葉が、かすかな後押しになる。

 親しくない人に話しかけたり、会議で反対を主張することが、本当に勇気のあることかと言われると、わからない。けれど、そこには躊躇する要因があって、それを振りきって行動するという過程があった。それが勇気なのだと思う。他には、好きな人に告白することだってそうだ。あなたが好きですという言葉を発することで、周りの人たちにばかにされたり、告白した相手に拒絶されたりするのではないかと恐れる。恥ずかしがる。自分の本心をさらけ出しているわけだから、それが失敗に終わったとき、ひどく傷つくだろう。その恐れを振りきって行動するから、そこには勇気があるのだと思う。

 逆に言うと、同じ告白であっても、そこに迷いがなければ勇気はないのだと思う。いつも誰にでも好きです愛してます、と言いふらしているような人が、同じ調子で誰かに告白していたらどうだろうか。好きな食べ物を話しているのと同じくらい軽い。まあ、そうは言っても、ひどく口ごもっていたり、顔を真赤にしながら言っていたなら、きっとそこには恥があって勇気がある。

 迷いがあって、決断があれば、なんだってそこには勇気があると思う。エロ本を買うことすら、そう思う。自分のことを振り返ると、二十歳を超えるまで、勇気を出す機会を避けるようにして生きてきた。だからほかの人と比べて、勇気を出すことに慣れていない。皆がもうとっくに慣れて、勇気なんか出さずともできることに、勇気が必要だったりする。たとえば、喫茶店に行くこととか。これ以上は情けなくなるばかりなので、伏せておく。ともかく、そんなふうに、日常の中で勇気を出しながら生きているだろうかと考えてみるのも面白いかもしれない。

2/29/2016 12:00:00 AM

ゲームと緊張について

 三日も雪が降り続いている。最高気温はマイナス三度。道路も、屋根の瓦も、庭木も雪に覆われてまぶしく感じるほどに白い。車も通らない道を制服の中学生が三人並んで歩いている。少し外に出てみたが、足首まで埋まるほどの積雪に心がしぼんだ。一時間もぐずぐずしてから、会社を休むことに決めた。家で働くこともできるかもしれないが、何かそういう気分にはなれなかった。冷えた指先で、日記を書くことにする。

 イベントが開催されるということで、久しぶりにスプラトゥーンを遊んだ。簡単に言うと、水鉄砲のような銃で撃ち合うゲームだ。しばらく離れていたが、やってみると、やはり面白い。ただ、どういうわけか、いつもよりひどい疲労感を覚えた。

 やられる瞬間に全身がこわばる。相手を倒す時も同じようになる。決着が着くごとに我に返って、もっとリラックスしなさいと自分に言い聞かせる。身体を伸ばしてみる。それでも、ほぐれない。一時間も遊んでいたら、すっかりくたくたになっている。緊張からくる震えは何試合かすれば収まるけれど、このこわばりがどうにもならない。仕事で感じたこともないような肩こりがあった。

 危険を感じた時に体がこわばるように、本能的な反射がそうさせるのだろうか。大げさな話だが、戦場で戦う兵士のように、命のやり取りを擬似体験しているのではないかと思った。スプラトゥーンでは、相手がどこから襲ってくるかわからない。また、主観視点に近いから、格闘ゲームなどと比べると危険を錯覚させる要素が強いのかもしれない。

 このこわばりを取り除くには、どうするのが良いだろう。一番わかりやすい方法は、身体を慣れさせることだろう。繰り返し同じことをして、危険ではないということを身体に覚えさせる。わざと無防備なままに前線に出て、弛緩した状態で倒されるなんていうのも一つの訓練になるかもしれない。スポーツ選手みたいに決まったフォームやルーチンを定めるのも効果がありそうだ。

 もっと楽にプレイするには、緊張する場面を減らすことも良いかもしれない。音、痕跡、戦場の敵の数、敵がよく潜んでいる位置、そういうものを読み取って、いま命の危険があるかどうかを察知できるようになれば、少しは緊張しなくなるだろう。戦場で常に緊張しているから疲れるのであって、危険がある場面だけ緊張していればもっと疲れないはずだ。

 他に考えてみると、プレイ環境の気温も関係しているかもしれない。夏頃遊んでいた時は、上のようなこわばりをそれほど感じなかった。暖かい部屋、暑い部屋で遊んでいるときは、自然と身体がほぐれているのかもしれない。

 ゲームを遊んでいるときの心身の状態について、もっと改善できる部分があるのではないかと度々思う。でも、遊んでいるときは感情に振り回されて忘れてしまう。そのままでも十分楽しい、むしろそのほうが楽しい、と言われるかもしれない。もっともな意見だが、楽しみの他に、何かを得ているのだと思いたくて、そんなことを探したくなる。成長する種。経験値のようなもの。何かを教えてくれる石。そういうものが転がっているのではないかという夢を見たくなる。

1/31/2016 12:00:00 AM

なぜ神様は人々を救わないのか

 ここ一ヶ月は毎週三回くらい鍋ものを食べた。身体が温まるし、すぐ作れるからこれが一番良いのだと母は言う。もちろん飽きているのだけれど、文句はない。薄味の熱いスープをすすりながら、柔らかくなったキャベツを食べるのが、たまらなく美味かった。ストーブの傍らでは、猫が腹を出して眠っている。テレビでは年末の特番が流れている。こたつがないことだけが心残りだ。

 機会があって手元にあるいくつかの漫画を読み返していた。特に、これはという発見があったのが「純潔のマリア」の一巻だった。魔女マリアが感情を露わにして大天使ミカエルと戦う場面がある。戦争で沢山の人が死んだり、村が野盗に襲われているのを神はなぜ見過ごすのか、なぜ人々を救わないのかと怒り叫ぶ。

 僕は「神様などいない」と考えている立場なので、存在しない神に救いを求める事は、不毛だと思う。けれど、純潔のマリアの世界の中には神は実在するものとして描かれている。それなのに、人々を平和と幸福に導こうとはしていない。じゃあ、神様はどうしたいのか? その問いかけは興味深いもののように思えた。

 神様は、誰かの面倒をみることより、何かを作ることのほうが好きなのかもしれない。神様にとっては創造することが一番の楽しみだとするなら、その後勝手に走りだした生き物たちと関わらないのもうなずける。ソフトウェアだって、メンテンナンスするのが一番手間がかかる。だから、作る楽しみだけ味わいたい気持ちは、実に共感できる。もうどこか別の星で、粘土をこねて、何を作ろうかと頭を悩ませているのかもしれない。火星や水星だって、作りかけの失敗作かもしれない。

 もっと別のイメージを探る。神様は、生み出すことに力を使い果たして、死を待つ老人のように横たわっているだけなのかもしれない。人々が争いに向かっていく姿を見て、涙をこぼしている。もっと良いかたち、もっと良い社会が作れるはずなのだと嘆きながら、しかし干渉することができない。誰一人助ける力もなく、ましてや戦争を止める力などもない。ただずっと無力であることを謝りながら、遠くで見つめているのかもしれない。もしそうなら、悲しいことだ。それと似た人間もたくさんいただろう。悲しいことだ。

 もっとずっと、自分勝手な理由かもしれない。たとえば、人が悩み苦しんだり、不幸に飲まれ壊れたりする姿を見て、快感を覚えているかもしれない。他人の不幸を通じて、自己の安全や平穏をかみしめるのは、特別な行為でもない。品のないことではあるけれど。それとはちがって、ただただ退屈を持て余しているのかもしれない。すべてがうまくいく世界を一通り体験した後、一周回って「なにもしない」ことを選択している。芝居を楽しむ観客として座っているのか、あるいは科学者のような冷たい視点で観察しているのか、どちらの可能性もある。

 もっと、人並み外れた理由かもしれない。世界を統べるものとして、文明の成長を待っているとしたら、どうだろう。戦争の悲惨さが広く知られ、多くの人間がそれを阻止しようとするような社会の完成。そういうものが、はたしてあるだろうか。あるいは、現状が理想だと考えているのかもしれない。戦争も天災も、命が失われることも、受け入れるべきだと考えている。どんな不幸も、どんな幸福も、一人ひとりが何も感じなくなれば、望ましい形というものが失われて「そのままで良い」ということになる。

 色々な神様の姿を思い浮かべたけれど、やっぱり、親しみが持てる神様のほうが好きだ。すべてを超越した何かであるよりも、偏屈なおじいさんであるほうが好きだ。人知を超えた正しい判断よりも、意志のある失敗のほうが好きだ。だから年が明けて神社にお参りすることがあれば、そんな姿を期待しながら手を合わせて来ようと思う。

12/31/2015 12:00:00 AM

なぜ僕はラジオを聞くのか

 夜、街路樹の電飾が光っているのを見かけて、ずいぶん気の早いことだと思った。けれど、それから数日後には雨が振り、そしてぐっと気温が下がった。冷たい風が、上着の生地をすり抜けてくる。もう冬は目前にある。

 ここ一年ほど、ラジオを聞くのが気に入っている。ガンダムサンダーボルトの主人公が聞いているような洒落た音楽番組ではなく、ゲーム(チェンクロラジオ)やアニメ(のぞえりラジオガーデン)それから、声優個人の番組(人生道でも飯田里穂)なんかを聞いていた。

 ラジオのことを誰かに話そうと思ったのだけれど、思い浮かべても「これが面白い」と言い切れるような何かを見つけられなかった。内容といえば世間話や大喜利、連想ゲームみたいな他愛のない遊び、あとは番組に関連する商品のお知らせ、といったものだ。ラジオのもたらす情報や話題が興味深いというわけではないように思う。でも、家に帰ると何時間も流しっぱなしにしていたりする。なにか、不思議な魅力があるのは確かなように思われた。

 もう一度注意しながら、改めてラジオを聞いてみると、ゲームやアニメのよくある他愛のない話で、共感できることが心地良いのだとわかった。たとえば、どうしようもなく好きなキャラについて語ったり、泣ける場面について熱く語ったりすること。他には、実はこんな仕掛けがあるんじゃないかという妄想も良い。ともかく、好きな作品であれば、話題はいくらでもある。

 思い返せば、小学生の頃なんて、ほとんどそういう話題しかなかった気がする。熱中していたゲームや漫画について話すことは終わりがなく、とにかく楽しかった。幼い頃に触れた作品が思い出深いのは、仲間とその楽しさを共有できたことも影響しているのかもしれない。そういう素朴な心地よさ、気心の知れた友人と雑談しているのと似た感覚を、ラジオは与えてくれる。

 こういった良い感覚を生み出す元になっているのは、ラジオの出演者が少人数であることだと思う。普通、ラジオの出演者は二人、多くても三人程度しかいない。毎週のように見慣れた面子で、小さな話をする。回を重ねるごとに、緩みが生まれる。間の抜けた話、ささやかな自慢、仕事の意気込み、一風変わった趣味や習慣。そういう人柄に触れることが妙に心地良い。ああこの人は面白いな、好きだなあと感じられる。

 心が震えるような、頭で火花が散るような特別さはそこにはないけれど、不思議と吸い寄せられるような安心感がある。最近始まったばかりの「ゆゆらじ」もまさにそういう雰囲気をたたえている。これは特定のアニメやゲームに関連した番組でもなく、動画付きなので相手を選ばない。慌ただしく時間が過ぎていくことに、疲れや寂しさを感じている人は聞いてみると良いんじゃないかと思う。

【第1回】RADIOアニメロミックス 内山夕実と吉田有里のゆゆらじ ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

11/30/2015 12:00:00 AM

家事について

 朝の寒気がはっきりと感じられるようになってきた。青々と波打っていた水田の爽やかさを書こうと思っていたけれど、その機会もなく実りの時期は過ぎ、刈入れが終わって今はもう丸裸になってしまっている。どうにも、時間がすぎるのは速い。

 ちょうど毛布を引っ張りだした頃、急に母が不調を訴えだした。すぐに治るだろうと思っていたけれど、長引いている。小さな病院でも、大きな病院でも診察を受けたものの、原因はわからなかった。今もまだ長い時間を布団の上で過ごす生活が続いている。ただ、食欲は出てきたので少しは回復したのだろう。

 ともかく、そういったことがあってから、母に任せきりだった家事について考えなければならなくなった。父はほとんど家事をする気がなかった。食事はコンビニの弁当で良い。ゴミはあふれても気にしない。洗濯をしたくないから着替えなければ良い、食器洗いをしたくないから割り箸や紙コップを使えば良い。そう考えているらしい。

 僕も普段家事をしないので、いつもどおり過ごしていると、家が汚くなった。洗濯物が山積みで着る服がなくなったし、台所は汚れた食器であふれ、カビの生えた鍋が放置されていた。空き缶とコンビニの袋に包まれたゴミがそこら中に転がっている。

 普段、何一つ考えずゲームばかりしているのだが、この時ばかりは居ても立ってもいられなくなって、まずは、ゴミをひたすら捨てた。テレビにかじりつくばかりで、家事をしようとしない父に腹が立ったが、すぐに期待するのを止めた。

 次に、切らしていた歯磨き粉や、その他の消耗品を買ってきた。飲み物を買ってくるのが重たくて、自宅でお茶を淹れるべきかと思ったが、急須にはカビが生えてしまっていたので諦めた。維持されるためのコストが払われなくなれば、ものは簡単に失われるのだと知った。

 洗濯機を回して、外に干した。肌着のような傷みやすい服はネットに入れて洗えと母から指示があったのでその通りにした。食器を洗って、指がふやけた。シンクに溜まっていた生ごみは菌が繁殖して、表現しがたいグロテスクな物体になっていた。悲鳴を上げながら始末した。こんな時は、絶対に視力が低いほうが得をしていると思う。

 慣れないことをしたせいか、ぐったりしたが、それでもできないことはないな、と思った。プログラミングの仕事をしている時よりも、家族に貢献しているという気持ち、誰かのためにはたらいているという手応えがあった。生活に必要な物を満たしている、人間らしい活動をしているという感覚もある。それはゲームをしている時間と比べると、奇妙な爽やかさがある。

 もしかすると、普段は退屈だからゲームをしているだけなんじゃないだろうか。そんなことを思った。本当は別にゲームが好きなのではなく、空いた隙間を埋めているだけなのではないか。虚しい考えだと思った。けれど、そんなものは杞憂だということがすぐにわかった。数日後には、当たり前のように、楽しくゲームができていたからだ。

10/30/2015 12:00:00 AM

プログラミングの楽しい所

 連休はあっという間に過ぎ去って、気がつけばもう九月が終わろうとしている。すっかり暗くなった道を歩いていると、雲の合間に、まぶしいほどの満月が見えた。ただの晴天よりもずっと情緒があるように感じられた。普段、単純さを好むくせに、このようなものに心引かれるというのは、いったいどういうことだろう。

 長めの休日があったので、個人的にゲームを作っていた。なかでも一番面白かったのは、モンスターを考える作業だった。最初は弱そうなモンスターを考える。弱いとはいえ、少しは気持ち悪い要素がほしい。そうすると、どんなRPGでも出現する「スライム」が、やはり適任だと感じる。もちろん、一匹では寂しいのでもっと数を考える。頭のなかで弱そうな生き物を探す。ダンゴムシなんてどうだろうか。小さく丸まって身を守る技を持っていそうだ。ダンゴだと弱そうだから鎧をつけていることにしてヨロイムシにしよう。

 こんな風に、モノとモノを組み合わせて何かしらモンスターを作る。名前から姿まで分かりそうなものにして、能力を一つだけ付け加える。他のモンスターと協力するような奴はどうだろうか。戦っていると成長して強くなるような奴はどうか。そいつと戦う時、プレイヤーはどんなふうに苦しむのか。うまい対策はあるのか。さすがに何十年もゲームばかりやっているおかげで、するすると次のアイデアが浮かんでくる。出てこなくなったら、生物図鑑を眺めたりするのも良さそうだ。

 二十個くらい思いついたところで、一番楽しい時間はお預けにする。どんなにモンスターを書きあげたところで、動かすための舞台が必要なのだ。そういうわけで、プログラミングに着手する。プログラミングが楽しくないかというと、そうでもないのだけれど、一番楽しい時間には劣る。だんだん飽きてくるので、続けるために、プログラミングの楽しい側面をもう見つめてみよう。

 わかりやすい面白さの一つは、プログラマの指示に対して、コンピュータが反応してくれることにあると思う。あらゆるプログラミング言語で最初にやることといえば、コンピュータに Hello World と表示させることだ。自分以外のものが、自分の命令に従ってくれる、意図通りに動いてくれるという単純な喜び。もしかしたら、犬にお手を覚えさせるように、コンピュータに愛情を持っているプログラマもいるかもしれない。

 それからもう一つは、全能感。プログラミングができれば、なんでもできるという錯覚を与えてくれるほど、コンピュータは万能な力を持っている。スマートフォンを見てみれば、そう感じるのも納得できるかもしれない。iPhone に入っているあらゆるアプリは、プログラミングによって生み出される。いくつかの工程があるとはいえ、プログラミングなしにアプリが生まれることはない。それを支配している、使いこなすことができる、という感覚は、うっとりするほどの魅力がある。

 後もう一つ。美しさを追求する楽しさがある。プログラミングはコンピュータに対する命令書(プログラム)を作ることだ。命令書というとそっけないものだけれど、それは意味を持つ文の連なりだ。言葉があって、表現があって、順序がある。こうして言い換えてみれば、なんとなく個性や創作性が生まれてくるということが伝わらないだろうか。美しさにも色々な基準がある。一番プログラミングと関わりが深いのは、無駄なく、的確な動作をする機能美だと思う。数学の証明のように、発想を一般化して、無駄な表現を削って、問題を解決する。オイラーの等式が美しいと認められているように、完成されたプログラムもきっと美しい。

 思いついたことを書いただけなので、他にも、まだ楽しい要素があると思う。わざわざ日頃、こんな会話をすることもないけれど、プログラマは皆、何かしらの思いがあってプログラミングをしているんじゃないだろうか。酒の入ったところで、上のような話をふっかけてみるのも面白いかもしれない。

9/30/2015 12:00:00 AM

囲碁の見かた

 気温はゆっくりと下り、蝉ももう鳴くのをやめてしまった。遠くで打ち上がる花火の音が聞こえる。窓越しに空を探してみたが、暗い雲があるばかりだった。聞き間違いだったかもしれない。

 食事時、ぼんやりとテレビを見ていた。NHK囲碁番組が流れている。囲碁なんてルールもろくに理解していない。石で囲めば石が取れる、ということだけしか知らない。それでも、解説を聞きながら注意深く眺めていると、基本的な駆け引きが少しだけ分かった。

 相手が白石を打つ。その石を取るには四つの黒石で上下左右を囲む必要がある。まずは黒石を白石の隣に置いてみる。相手は白石が取られるのを嫌がって、白石の隣にもう一つ白石を並べる。すると、白石の面積が大きくなって、それらを囲むのに最低六個の黒石が必要になる。黒のプレイヤーが攻めるのに手数がかかるので、白のプレイヤーは他のところを攻めることができる。これが、シンプルな攻防だ。

 攻めようとする石は斜めに置かれる。斜めに並んだ石は、上下左右が空いているために、分断されやすい。それを防ぐために、L字につないだりすることも多い。

 攻めに手数がかかるゲームなので、簡単に石を取ることはできない。そこで、置き石を使う。もし、相手の石を囲うための石が一つ置いてあるなら、攻め手を省略できる。たとえば、もし相手が置き石の隣に石を置いたなら、すぐさま四個の石で囲む攻めができる。これはもちろん、守りにも使うことができる。

 囲碁の定石では、いきなり中央で戦うのではなく、盤面を上下に四つ折りした区画に分かれて戦うようだ。囲まれる、勝てないとわかった区画は諦めて、他の場所を攻める。そうすることで、負けそうな区画に石をつないだり、敵の攻め石を奪ったりすることができる。

 実に不思議なことに、ある戦場で、どうがんばっても石が囲まれてしまう、ということがわかったとしても、その戦場の決着はつかない。なぜかというと、手数がかかるため。攻め側が決着をつけようと動いたとしても、守り側が他の戦場を攻めてしまう。ゲーム全体としての勝ちを狙うなら、どの戦場にも気を配らなければならない。各戦場は離れているとはいえ盤面はつながっているので、異なる戦場の石が、置き石として機能する。そのため、一旦勝ちが確定した戦場であっても、油断することはできない。

 四つの小さなコロニーがライフゲームのように成長していく。終局の盤面を一目見ても、白黒の散りばめられたキレイな模様にしか見えない。極めてシンプルなルールから生じる、複雑な駆け引き。脈絡なく石を並べているように見えて、確かにそこには理屈がある。思いがけない魅力を発見して、ゲーマーとして成長したような満足感を覚えた。

8/31/2015 12:00:00 AM

「CHAOS;HEAD NOAH」の感想と、ある種のオタクの生き方について

 梅雨と台風が過ぎてから、殴りこむように猛暑が訪れた。もはや冷房なしではいられない。アイスクリームだのなんだの氷菓子を父が大量に買ってくるのだが、僕の気が向いた時には冷凍庫は空である。それもまた暑さのバロメーターなのかもしれない。

 「CHAOS; HEAD NOAH」の一周目をクリアした。主人公の西條拓巳を見ていると、オタクのみっともない部分を見せつけられているかのようで辛い。自己中心的で、被害妄想が強い。臆病なくせにプライドは人一倍高く、他人を見下している。

 彼のふるまいを見ていて、なぜそうなってしまうのかと、始終やきもきしていた。それでも、さんざん逡巡した後でヒロインを救うために立ち上がり、剣を見出す場面は心を揺さぶるものがあった。それまでストレスを溜めに溜めたぶん、開放感がすばらしかった。

 ところで、彼の心の不安定さ、未熟さはどこから来るのだろうか。いったい、どうだったら見ていて安心できるのだろうか。

 アニメやゲームは、現実と切り離して楽しむことができるものが多い。どこかへ出かける必要もなく、誰かと関わることもない。つまり、容姿、衣装、立場、礼儀など、あらゆることを気にする必要がない。どんな人でも、閉ざされた精神の世界で、物語だけに浸ることができる。

 このことが、現実世界を嫌う人々の安らぎの場になっている。スポーツも駄目で勉強もできず、顔のつくりは不細工で、恋人も友人もなく、現実世界に期待できそうなことは何もない。楽しく過ごしている人がいる中で、どうしようもない焦りや、閉塞感を抱いている。現実にコンプレックスを抱いている人にとって、精神だけで成立する世界は、心地よい居場所になるだろう。

 しかし、アニメやゲームを愛するあまり現実をおろそかにすると、悪循環が起こりうる。出かけずともコンテンツが配信されるから出無精になる。運動もしないから肥満になり、健康を損なう。誰とも会わないから髪は伸び風呂にも入らず、着替えもしない。不衛生になる。人との関係が疎遠になる。そうして、社会で好まれない人間になる。社会で好まれない人間は、つまはじきにされる。自分の生きる場所は現実ではないと思い込んでしまう。辛い現実を見たくないがために、追い立てられるようにゲームやアニメに没入する。現実に生きるための営みをほぼ切り捨てて、コンテンツを消費するだけの存在になる。

 拓巳の場合はそこまで悲惨ではないけれど、このコースに片足を突っ込んだような状態だ。そうならないためには、どうしたら良いのだろうか。

 辛く苦しい現実を見ようとしない、ということが問題のように思う。そのことが後ろめたさになり、弱点として残り続けるからだ。ダメな自分を知っているのに、それを認めないこと。本当は自分は優れているのだ、と思い込むこと。それは、自分自身を否定することだ。「こんなのは自分じゃない。もっとうまくいきられるはずなんだ」と考えたところで、現実の自分は変わらない。うまくやれる本当の自分はいつまでたっても姿を表さない。それは、自分が自分の価値を認めないということだ。皆でよってたかって、無能だと中傷するなかに、自分が混ざっているようなものだ。そんなことを考えていたら、生きていく力が失われて当然である。

 だからもし、そんな考えにとらわれて、現実から目をそらしているなら、自分をゆるし、受け入れることが必要だと思う。

 自分の肉体、容姿、能力、性格が、いわゆる社会の理想にそぐわないこと。ほとんど必要とされてないと認めること。その上で「しょうがないじゃん」とゆるす。諦めてもよいし、気が向くなら改善の努力をしてもよい。今はダメだけど、いつか良くなるかもしれない。ずっとダメなままだったとしても、まあしょうがない。今以上に他者からの評価が落ちることもない。落ちたとしてどうということもない。そういった寛容さ。ことさらに振りかざす価値よりも、そんなふうに染み出してくるものが良い。

 CHAOS; HEAD NOAH の物語は「現実を書き換えるほどの強力な妄想」の話で、上で言ったような現実を認めることとは逆の答えを見出している。刺激的だったと思うけれど、寄る辺のない妄想の先に幸せがあるとは、僕は思わない。

7/31/2015 12:00:00 AM

映画ラブライブの感想

 毎週のように雨が降った。激しい雨は少なかったが、だらだらと降り続く長雨が多かったように思う。中途半端な優しさが梅雨らしい。色あせた紫陽花が崩れそうになっている。やがて夏らしい夏が来るだろう。

 ラブライブの映画を観た。聞き覚えのあるピアノのメロディと、タイトル文字が出てくるだけで涙が出そうになる。思い返してみれば、この一年はかなりラブライブに浸かっていたように思う。アニメから入って、スクフェスをやって、ラジオを聞くようになった。今でも印象深いのはアニメのファーストライブのシーン。それまで、歌とダンスの練習をしたり、チラシを手配りしたり、努力を積み重ねてきたシーンがあったから、成功するのだろうと思っていた。幼稚園のお遊戯会みたいな、受け入れられてしかるべき舞台なのだろう。そう高をくくっていた。けれど、幕が上がってみれば、がらんどうの客席。目をうるませて立ちすくむ三人。思いがけない厳しさに驚いた。いったいこれからどうするんだ、と急激に引きこまれていった。μ'sというグループが生まれて、失敗して、笑って、成長していく姿を見ているのは、本当に面白かった。

 映画では旅をする九人の姿や、沢山のライブシーンが見れて満足だったのだけれど、一度観たくらいではよくわからないシーンもいくつかあった。特に、穂乃果が水たまりを飛ぶシーン。「とべるよ」と声をかけた女性シンガーは何だったのだろうか。

 映画の中でμ'sが解散することははっきりと宣言された。スクールアイドルだったということ、短い時間の中で、学校の中で活動してきたことを大切にしたいと言っていた。最後のライブが流れているわずかの時間が、今までにないほど鮮やかに感じられた。μ's の物語はこれで終わる。そう思うと、言いようのない焦りのような、時間がボロボロとこぼれ落ちていく様が見えるような気がした。砂が落ちるような、花火が弾けるような儚さだ。ライブの映像が切り替わり、スタッフロールが流れる。やがて劇場は暗くなった。

 終わった。すっと力が抜けた。こういう受け止めかたは初めてかもしれない。アニメの最終回は涙がでるほど心を揺さぶられたものだけれど、こうも簡単にスイッチできるのが、自分でも奇妙に思えた。それでも、だいたい物語を終えれば、なにか一言二言と語りたくなる。友人に向かっていつものごとく、整理されてない頭でなにか適当な事を言った。そしてすぐに家路につく。また何事もなかったように日常と仕事が始まる。現実は少し冷淡だ。

6/30/2015 7:40:51 PM

プログラミングの試行錯誤と最後の手段

 夜風を取り入れるために窓を開けると、蛙の鳴く声が聞こえた。もうしばらくすると蚊が入ってくるようになるので、この空気を味わえる季節は長くはない。遠くから聞こえる、表現しがたい滑らかな音は風の音だろうか。あまり考えたこともなかったが、風の音にも色々な種類があるものだと感心した。

 特別な話題もないので、仕事のことを思い浮かべる。他の人と協力する仕事がちらほらとあって、なんとなく人がプログラムを書く様子を見ていた。書いたプログラムが一発で動くのは稀なことで、たいていの場合は、ああでもないこうでもないと試行錯誤することになる。

 一つ目。プログラムを一行ずつ読んで間違いがないか探す。誤字がないか、命令が漏れてないか確かめる。だいたい自分でプログラムを書いたばかりなので、間違いはみつからない。

 二つ目。似た処理をしている箇所を真似してみる。よく知らないライブラリやフレームワークを使うときには、よくやる。確かな根拠があってそうしているわけではないので、動いても動かなくても理屈はわからない。もし、それが成功したなら、失敗した時と何が違うのかを確かめるのが好ましい。雑にこれをやると、コピペが氾濫してプログラムは著しく劣化する。

 三つ目。プログラムを少しずつ変えながら実行する。入力を変えた時に、出力がどのように変化するかを観察する。変数をプリントする、というデバッグ方法は、これに当たると思う。

 四つ目。ググる。エラーメッセージが出ているならそれを使ってキーワード検索する。英語が出てきても逃げずに良さそうなところを探す。個人の日記は信頼性に難があるので、ほどほどに見る。技術を提供している公式のドキュメントを見るのが安全(公式がクソな場合もあるが、その場合は技術の選択を誤ったのだと思う)。技術者向けの質問サイトでも良い。ここでの調査の質が最後の手段の説得力に関わってくる。

 五つ目。先輩や同僚に泣きつく。相談の体でもよいが、愚痴気味に声をかけるという手もある。こんな方法やあんな方法を試したけれどうまく行かなかった、と語る。とにかく話を聞いてもらう。何かヒントになることが得られれば良いが、そうでなくても良い。少なくとも「自分以外の人でも、動かない原因は突き止められなかった」という安心感が得られて、次のステップに進むことができる。

 六つ目。諦める。採用しようとした方法は、ダメな方法だったのだと割りきって、別の解決策を探す。たとえば代わりとなるツールを探すとか、別のライブラリを使うとか、設計が変わっても仕様が満たされれば良い。それでも実現できないか、実現するのが果てしなく面倒な場合は、仕様を変えることもあるかもしれない。仕様を変えるには、仕様が変わっても目的が果たされることを説明しなければならない。

 だいたい順番は入れ替わり戻ったりもする。人によってはもっと別なアプローチがあるかもしれない。なんとなく新入社員や学生の世話をしてみた感じでは、彼らは五つ目と六つ目の方法を取らないことが多い。声をかけてやると、だいたいそういう流れになるけれど、自分から踏み込んでくる人はほぼいない。

 相談できない理由はいろいろ考えられる。話しかけるのが怖い、説明が下手でどもる、失敗しているのを見られたくない、とか色々。それでも、相談という手法は強力なので、できれば使ってほしいと思う。

5/31/2015 2:37:32 AM

「楽園追放」と人間らしさについて少し

 窓を開けていると学生たちのはしゃぐ声が聞こえる。元気が良いなと見下ろすことができるのは、大人の特権だ。社会人になってから、卒業も進級もなく、一定の速度で生きている。どちらも幸せなことだと思う。

 楽園追放というSF映画を見た。映画自体の面白さはさておき、なんとなく人工知能について思い出したことを、少しだけ書いておこうと思う。

 人ではないものに知能を与えるということは、機械に人間らしさを与えることなのだと思っていた。恥ずかしいことだが、錬金術のような神秘に満ちた学問なのだと思っていた。人間らしい発想、ひらめき、曖昧さ、柔軟性、飛躍、そういった表現しがたいものこそが知能であるように思えた。しかし勉強してみると、そのような思想ではなく、実利のある工学的解決を目指す分野が主流だった。言い換えると、結果が役に立つならば、人間らしさなど備えている必要はない、という方針で研究を進めるのが普通だった。

 問題はデータと解の条件によって表現される。数式とアルゴリズムによって、解決される。教わった知識のほとんどは、いかなるアルゴリズムを用いるか、いかなるデータ構造を用いるかということだった。それなら教養の数学でもやっているほうが、よっぽど知的で面白いんじゃないだろうかと思った。

 当時はそんな風に思っていたけれど、そもそも人間らしさというのは何なのだろう。楽園追放の作中に出てくるロボット、フロンティアセッターはとても人間らしく見えた。ひとつには、完璧に会話ができていた事があると思う。今の人工知能でも、まともな会話はほとんどできない。何か悩みを相談して解決するだとか、好きな音楽について語るとかはもちろんできないし、もっと簡単に、最近あった出来事を話し合うとか、自己紹介を聞いて受け答えするとか、そういったこともできないだろう。

 現代のコンピュータが会話できないのは、彼らに経験というものが不足しているからだと思う。人の会話には背景とか文脈とかがあるけれど、コンピュータにはそれがない。逆に言うと、人間は背景とか文脈とか言った部分に情報を溜め込んでいて、それを出し入れしているから、色々な話題に対して「似たようなことが合った」「共感できる」「こうしたらうまくいくかもしれない」「もしそうだとしたらどんなことが起こるだろうか?」とかいろんな反応が返せるのだと思う。こういった文脈とか背景とかいうものは、データとして表現しがたい。また、経験から感情を導き出したりする技術もない。

 フロンティアセッターにそれができていたのは、自身の開発者たちと会話しながら過ごしてきたからだろう。また彼は、何百年という時間をかけて、作業用ロボットを作成したり、燃料を蓄えるために取引をしたりして、外宇宙探索の準備をしていた。その過程で、色々なアクシデントを経験してきたのだろう。だから、会話をできるだけの下地がある。

 さて、こうして書いてみたわけだが、ここまでの文章は、自分の経験や背景から引っ張り出してきた話題なわけで、まさに人間らしさの要因を備えているはずだ。他の人にどう見えているかわからないけれど、俺は人間らしいのだと感じられてささやかな満足感がある。

4/30/2015 11:36:42 PM

火のゆらめき

 今日はとても暖かく、良い天気だった。ただ駅まで歩く短い時間でさえも、特別な穏やかさに包まれているかのように感じられる。母に言われてようやく気づいたのだけれど、庭の衰えた桜も、どうにか花を咲かせていた。

 つい先日、ボードゲームに参加させてもらった。非常に面白かったのだけれど、プレイを終えてからしばらく、熱っぽさと頭痛、それから強い疲労感があった。それでも、いつもどおりに帰宅して、毎日続けているビデオゲームを再開した。疲れているはずなのに、妙に眠気がなくていつも以上に夜更かしをしてしまった。

 翌日、昼過ぎに目覚めて、朝食も取らずにタブレットに触れていると、突然、何かのスイッチが切れたように、脱力感に襲われた。そこでゲームをすることが酷く億劫で無意味に感じられた。この虚無感は何だろう。タブレットを手放して、じっとしていた。何もしないと、何かを考えてしまう。何のためにゲームを続けているのだろうか。

 まずは、除外しておきたい考えが真っ先に浮かんでくる。終わりが無いから続けている。他にすることがないから続けている。悪くはないが、暗い話になりそうなので止めておく。それから、何かのために続けているわけではない、すべてのことに理由があるわけではない、という冷たい考え方。嘘ではないが、何にでも当てはまることを大げさに言ってもつまらない。

 有名な誰かが言っていたことを思い出す。その人は、ゲームを続けていられるのは、自身の成長を目的としているからだ、と言っていた。過去の対戦を観察し改善点を探す。改善点を身体に覚えさせ、正確に再現できるように反復練習する。実戦で改善されたかどうか検証する。そのプロセス、確かに強くなる手応えが楽しい。天辺を探すのではなくて、いつだって、今の自分よりほんの少し強ければ良い、と言っていた。少しずつ少しずつ、その積み重ねが、達人への道のりなのだろう。寒気のするような考え方だ。そんな求道者みたいな考えは持てそうにない。

 自分の考え方とは一致しないけれど、そういう情熱的な考えに触れると、意味もなく前向きな気持ちになってくる。マラソンの観客もそんな気持ちなのかもしれない。何の答えも見出してはいないけれど、達人の見る世界を思い描くだけで愉快な気持ちになれたので、今日はそれで良しとする。

3/29/2015 11:33:59 PM

今現在を大切にすること

 毎日の帰り道で、鮮明に星が光っているのが見える。星座なんてオリオン座くらいしか知らないけれど、不思議と心に染み入るものがある。「ふたつのスピカ」という本を読んだせいかもしれない。神秘性にかけては、これほど普遍的なものはないな、と思う。

 ふとした時に、面白くないことがある。結婚して家庭を築くこともなく、社会に貢献する仕事を成すこともなく、派手に遊ぶことも知らない。そういう風に行きている。そんな人生は、つまらないのではないか。あまり気にしないようにしているつもりだけれど、幸せそうなカップルを見かけたり、酒の席で周りにからかわれたりすると、やはり引っかかるものだ。

 今月は「嫌われる勇気」という本を読んだ。その中に、興味深い考え方があった。過去や未来ではなく、今現在を最も大切にする生き方を知った。自分の解釈は下のようになる。

 過去について思い悩むことは非生産的だ。なぜなら、過去は変えられないからだ。どのようなトラウマであっても、それは当てはまる。トラウマは抗いがたい生理的作用を身体にもたらすが、なにがトラウマで、それがどのように影響しているか把握したとしても、直ちに治療の手がかりとはならない。

 未来に執着することも不幸をもたらす。夢や目標は美しいものとしてもてはやされるが、それが達成されなかった時のことはあまり語られない。一握りの到達者、偉人の下に、夢破れて絶望した人間たちがいる。そうならないためには、未来の為に今を犠牲にしないこと。結果に縛られないこと。努力と成長の過程を楽しむこと。

 物語の終わりに書かれていた言葉が印象的だった。過去や未来といったおぼろげな闇を見るのではなくて、スポットライトのあたった今この時を、ダンスを踊るように生きなさい、というような。それがとても良いと思った。

2/27/2015 6:40:23 PM

ガールズ&パンツァーの感想

 寒さに凍えて、病人のように毛布にくるまって過ごしている。街路樹のイチョウが葉を落として丸裸になっていた。生物が活動するのに適した季節ではないということだろう。人間だって休んでいるべきだと思うけれど、社会は一定の流れを保たなければならないらしい。慣性のまま動くほうが、燃費は良いということなのかもしれない。

 動きたくないので、時間つぶしにガールズ&パンツァーを見ていた。単純な萌アニメかと思っていたけれど、想像以上にリアルな戦車戦を繰り広げていたのでびっくりした。各乗員の役割が明確に分かれているところや、戦車の装甲と火力によって戦い方が変わったりするところなど、なかなかに具体的で、かつ広がりがあるように思えた。全く知らない領域の話だったから、すべてが新しく感じられて得した気分だ。単純に、戦車が轟音を立ててぶつかり合っているのを眺めるのも、迫力があって良い。

 全編面白かったのだけれど、なんとなく印象に残っている場面がある。最終話の一つ手前、主人公の女の子が一年生チームを助ける場面だ。ここで、一話からずっと引きずってきたそのトラウマをようやく乗り越えたんだな、とわかる。成長というものは、このようにして描かれるのか、と妙に納得した。

 人は何かを失敗する。それはしかたがないことだけれど、忌々しいことに、その失敗を引き起こした状況が再度訪れることがある。そんなときどのように振る舞うのか。過去の失敗がちらついて、慄き逃げ出すかもしれない。もはや成功しなくて良いのだと諦めるかもしれない。練習や決意など過去と違った自分を支えに、立ち向かうかもしれない。いずれにしても、自分がどう変化したのか、ということが浮き彫りになる。まるで誰かに試されているかのようだ。

1/31/2015 10:41:47 PM

プラモデル

 雪までは降らなかったけれど、強く厳しい風が吹く。雨戸を閉めて冬ごもりしていると、少しは寒さもしのげるけれど、太陽の光も届かないので、いよいよ動きが鈍くなる。年末の休暇は特に酷い。日がすっかり昇った頃、暗闇から這い出てくる。目覚めが遅いのは寒さのせいばかりではない。きまぐれに買ったプラモデルを、夜明け前まで組み立てていたからだ。

 こんなことをするのは、何年ぶりだろうか。数年ぶりの作業は、とても不思議な心地がした。ゲームをしている時のような明瞭で熱っぽい楽しさはない。表現しにくいが、そこにあるのは、にじみ出るような静かな楽しみなのだ。

 角度を変えながらランナーからパーツを切り離す。凹凸を噛みあわせてパチリとはめ込む。小さすぎるシールを、複雑な曲面に貼る。やり損なって一人で苦笑する。それら手触りが伝える、かすかで根源的な喜び。隠れてしまうようなパーツの造形の複雑さ。思いがけない機巧で実現された可動部への驚き。エアコンの音しか聞こえない部屋で黙々と続けていく。奇妙な侘び寂び。

 小学生の頃は考えもしなかった。理屈もなしに、楽しめたことだ。わざわざそんなことを考えないと、楽しめたかどうか不安になる。自分が鈍感になっている証なのかもしれない。

f:id:eggchicken:20141231014802p:plain

12/31/2014 1:50:31 AM

教えるということ

 まだ十分に紅葉もしていないのに、十二月が訪れようとしている。今日はずっと、雨が降っているのが聞こえていた。雨というのは、考える時間を取るにはちょうど良い。出かけるのに都合が悪いし、しみじみとした気持ちになるからだ。

 ハッカソンのイベントの手伝いをして、学生に対して技術的な指導をしたけれど、あまりうまくいかなかった。何かを教えるということは、とても難しいことだと思う。昔、読んだ森博嗣の小説で「教えるということは不可能だ」というようなことが書いてあった気がする。言葉遊びに近い極論だけれど、なんとなく次のような意味だったと思う。

 教えようとする立場の人間が、何かの事例を示したり、言葉で概念を示したりすることはできる。しかし、それを受け取ろうとする人間が、どのように解釈するか、理解するかは千差万別であって、そのままの形で伝達されることはない。教えようとしたことが、軽々と超えられてしまったり、全く別の概念と結び付けられているかもしれない。言葉を通じた歩み寄りがない限りは、教えようとしたこと、教わったことは一致しない。歩み寄りは双方が行うものだから、それは協力的な行為であって、どちらかが優位に立つことはない。教えるというのは、教えようとする側の傲慢な考え方だ。

 多分に嘘も混じっているし、僕もまるきり信用している主張ではないけれど、いくらか愉快な話だと思う。自分の知っている教員は、どこか尊大な態度の人が多かったので、対等だと思う材料が欲しかったのかもしれない。教えるという行為を除いてみれば、上下関係がやはり生じてしまうのかもしれないけれど。

 まあそれはさておき、学生と接して思ったことは、彼らはまだ未熟だということだ。歳の差は10歳近く離れているのだから、当たり前かもしれない。プログラミングをするための知識が足りていないし、それを補う時間もないので、とにかく「こうすれば動く」という答えを与えるしかない。そんなやり方をしても、理屈がわからないから、応用が効かない。自分のコードが書けない。結果的に「とりあえずやってみた」という経歴を作っただけで、彼らを成長させることはできなかったと思う。難しいことだ。そんな風に、教えることを考えていた自分は傲慢だったのかもしれない。

11/30/2014 3:18:28 PM

スコアランキングの熱と虚無の時間

 先月の末に一度見たっきり、赤とんぼを見かけない。何かの勘違いか、まぼろしだったのかもしれない。それでも、暦の上では秋が来て、少しずつ冷えるようになってきた。今月は「片道勇者」「Crypt of Necrodancer」「ブレイブルー クロノファンタズマ」あたりを中心に遊んだ。それからついに「あやかし百鬼夜行」を遊ぶのを止めた。「遊んで、終わった」という感覚が離れて行く前に、ここで一呼吸置いて、まとめておくことにしよう。

 「あやかし百鬼夜行」は、カードを集めること、ランキングに挑むこと、トレードすること、その3つが面白いゲームだった。ランキングに挑むこと、それ自体はまだ中々楽しいものだと思っている。時間あたりのスコアの獲得率を考えて、自分の目指せる順位を予測して「降りる」という選択をしたり、あるいは「いける」と判断して上位に挑戦してみたり。

 また、上位を目指すには有利なカードを集めるためのトレードも重要だった。このゲームのトレードにはシステム的な制約がほとんどない。そのせいで、現実にも似た面白い文化が生まれている。そこでは、ゲーム中の回復アイテムが通貨の役割を果たす。蚤の市みたいに、あちこちで声掛けだとか値引き交渉が行われている。カード同士の等価交換ではなく、イベントで協力する条件にカードのトレードを利用する人々もあった。相場に合わないトレード(シャークトレード)をもちかけるプレイヤーが横行したりもするので、良いことばかりではないが。

 僕は、このゲームにかけるお金は多くても月0円〜3000円くらいに抑えていた。当然、それ以上投資しているプレイヤーには歯が立たない。それでも手持ちのカード、時間、資金、アイテム、それらのリソースを管理運用する面白さは確かにあった。欲しいカードが出るまでは、アイテムを集め、トレードをしながら牙を研ぐ。周到に準備して、時間をかけてスコアを稼ぎ、上位を目指す。人と競う、勝敗の熱。デイトレーダーみたいに、10分毎の順位変動を見つめたりもした。たしかに面白かったのだ。

 では何故やめたのか。ひとことで言うと、スコアを稼ぐのが面倒くさいからだ。ランキングに挑戦するには、スコアを稼がなければならない。スコアを稼ぐ方法は簡単だ。ただひたすら画面をタップすればいい。「探索する」とか「デッキを選ぶ」とか「ボスを攻撃する」とか手順を分けることはできるが、それらはただひとつの行為に集約される。「画面をタップする」それだけだ。タイミングよくボタンを押すとか、敵の体力を見るとか、適切なコマンドを選ぶとか、そういうゲーム的なアクションはほぼ必要ない。5分とか10分のスキマ時間を使って楽しむことができるように設計されているのだろう。

 最初は、レベルが上ったり、お金が増えたり、見慣れないカードを手に入れたりするから、まだ面白かった。しかし、長く遊んでいるとレベルは上がりづらくなる。お金は余っているのでいらない。手に入るカードは何百回も処分してきたものになる。実に退屈だ。それを1時間も2時間も続けなければならないのだ。いや、ランキング上位を目指すなら、それどころではない。ひたすらタップする。唯一の楽しみは、獲得したスコアと、ランキングを眺めることだけだ。そんな時間が、約一週間も続くことになる。それは、自分の人生について振り返りたくなるほど、虚無の時間だ。

 虚無の時間。「遊んでいるはずなのに、全く楽しくない」というその感覚。どんなゲームでもゴールのための苦痛は、どこかに転がっているものだ。しかし、虚無の時間には、変化がない。改善できない。そう感じたら、そのゲームはプレイヤーに別れを求めているのかもしれない。

 収益があるかぎり永遠に続くソーシャルゲームは、自分で踏み切らない限り、別れられない。だから、楽しくないと感じるサインを見逃さないようにしたいものだ。

10/27/2014 7:08:04 PM

格ゲーの思い出

 9月ももう最終日。夏の暑さは鎮まり、ずいぶん過ごしやすくなった。赤とんぼがちらほらと飛んで、銀杏の実が落ちている。マツムシやらスズムシやらも鳴いている。秋の侘びしさか、少し昔のことを思い出す。なぜだか、中学生くらいのことを。その頃は格ゲー仲間がいて、休日は一日中対戦していた。

 一番最初に遊んだのは、おそらくスーパーファミコンスーパーストリートファイター2 だと思う。何故か父が持っていたので、それを友達の家に持ち込んで、延々と対戦していた。当時、ジャンプ強キック→しゃがみ強キックの連携と、当て投げ、波動拳、リバーサル昇竜拳ぐらいしか知らなかった、それでもかなり盛り上がったのを覚えている。戦略なんてものはなく、対空という言葉すら知らなかった。

 時間は流れて、ストリートファイターEXで対戦するようになった。このゲームではコンボのトライアルモードがあったので、皆コンボだけは上手くなった。ガイルが流行った。どすの利いた声に滅茶苦茶笑った。ダランやスカロマニアみたいなネタキャラも動かしていて楽しかった。どのキャラもコンボができると、そこそこに使いこなせている感じがして面白かった。戦略上の進化はほとんどなく、ジャンプが通ったら以前よりも火力が高くなったことくらいか。なんとなく、対空に昇竜拳を使うことは理解していたが、対空というワードは未だに知らなかった。できていたのは、ヒット確認くらいだろうか。当時は、雑誌も読んでいなくて、身内でばかりプレイしていたので、何も知らなかった。インターネットがちょうど始まったくらいで、情報の集め方も知らなかった。戦いの質はあまり関係なかった。気心の知れた仲間と遊ぶということが、それだけで楽しかった。

 その後 ストリートファイターZERO2 も遊んだけど、全く変化がなかったのでここでは省略する。自分たちにはオリコンは使いこなせなかった。革命が起こったのはギルティギアゼクスで遊ぶようになってからだ。テレビアニメをそのまま動かしているような滑らかさが凄いと思った。そして「ダッシュ」があるので、簡単に相手に近づくことができ、高速な中段技も豊富なので激しく攻め合うのが面白かった。そのころになると、学校や自宅でインターネットに触れられるようになった。そこで対空技6Pを知って、さらに空中コンボの気持ちよさを覚える。さらに情報が集まってきて「固め」とか「ディレイ」とか「割り込み」とか「投げ暴れ」とか「すかし下段」とか「ファジーガード」とか色々覚えた。僕はアンジを使って中下段同時攻撃とかやっていた。当然、普通の方法では受けられない。思い返すと、酷いことをしていたと思う。このゲームはフォルトレスキャンセルとか、霧ハメとか、○○ループとか、一撃でピヨる連携とか、色々酷かった。何度もコントローラーをぶん投げたくなったものだけれど、それがまた楽しかったと思う。

 続いてカプコン VS SNK もやっていたけど、やはりよく覚えているのはギルティギアイグゼクスの方だ。この頃は雑誌を買って攻略法を見てみたり、インターネットで対戦動画を見たりして、色々なことを覚えた。「カウンター限定コンボ」とか「持続を当てる」とか「直前ガード」とか。技のフレーム表の意味がわかるようになったのもこのころだ。だんだん複雑なテクニックを吸収していって、対戦は複雑化していった。技の相性もわかるようになってきた。しゃがみSと立ちHSのどちらが強いかとか、遠Sに6Pを合わせると勝てるとか。カイの 6P と 2HSの使い分けとか。キャラを使う前に技構成を見て、どれが牽制用か、対空用か、コンボ用かわかるようになる。

 それから大学入試やら何やらで、長い時間をともにした仲間は自然と解散した。空白が訪れた。(その間、猛烈なほどモンハンやぷよぷよに打ち込んだが、その話はまた今度にする)再び格ゲーを始めたのは大学院生の頃だ。研究室にいた後輩に誘われて、スーパーストリートファイター4を遊んだ。長いキャリアの差があったせいだろう、面白いほど勝ちまくった。それが相手に火をつけたらしく、彼はメキメキと上達していって、僕以上に上手くなった。偶然は重なるもので、ちょうどその頃、研究生の先輩からブレイブルーに誘われていた。僕は PS3 を購入して、2つの格ゲーに手を出すことになった。この時の変化としては、ハード付属のコントローラに限界を感じていたことがある。スパ4はシビアなコンボが多く、ずらし押しや同時押しのテクニックが必要だったので、アーケードスティックを購入して、さらに打ち込んだ。

 スパ4は投げ、グラップ、グラ潰し、ガンガード、これらの三すくみがよく出来ていると思う。ギルティギアは攻めが大幅有利だったので、その時は考えもしなかったことだが、対応する楽しさ、攻撃を受け流す楽しさを覚えた。また、前ステップはあるがダッシュがないので、接近し技を当てるということが思いの外難しいことがわかった。この頃にしてようやく「間合い管理」とか「差し込み」とか「差し返し」とかいうのを覚えていった。ウメハラの名前を知って、そのプレイに感動した。波動拳昇竜拳がいかに強力な技か、ということもわかった。対空の重要さがさらに身にしみた。相手を動かす技としての波動拳を覚えた。訓練されてない人がジャンプするポイントが、理解できるようになった。しかし、それから伸び悩んだ。今思うと、受けの楽しさを覚えて、攻めや崩しを蔑ろにしていたのが良くなかったのだと思う。

 ブレイブルーP4Uヴァンパイアセイヴァーの話もしておきたいが、そろそろいい時間になってきた。指も疲れてきたので、ここらでお開きにしようと思う。あまり深く考えたことはなかったけれど、僕は格ゲーと長い時間付き合ってきたのだとわかった。そして、時を経る毎に少しずつ強くなっていた。今では半分動画勢みたいになっているけれど、まだ後ろ髪を引かれる気がする。成長と、勝利の喜び。格ゲーの世界にはそれらがあることを知っている。

9/30/2014 7:48:01 PM

ハッピーエンドにならない理由について

 8月はあっという間に過ぎていった気がする。通勤途中に見かけるひまわりが、長雨のせいで花を落としてしなだれていた。毎日見かけるから、変化が目につくのだろう。葉が黒ずんで、さびれていく様が、何か物事の終わりを示しているように見えた。

 終わりといえば、月光条例の最終巻を読んだ。物語の大詰めは皆素直になって激しくぶつかってて面白かったと思う。月光条例という物語は、悲しい物語がキライな藤田和日郎(作者)が、その結末に一言もの申す、という動機で始まったらしい。僕はあまり真面目な読者ではなかったので、作者の最初の動機がどういうところに着地したのかはわからなかった。なので、改めて「なんで物語をハッピーエンドにしないのか」について考えてみた。だいたい3つの理由があると思う。

 一つ目の理由としては「ハッピーじゃないほうがリアルだから」というのがあると思う。物語の背景からして、ハッピーになりっこない、という理屈。エイリアンとかバイオハザードとかで全員助かったらヘンだし、迫力がなくなってしまう。そういう死人が出る話じゃなくたって、うまく行き過ぎる世界はヘンだ。何かの犠牲がないと釣り合わない。多少ハッピーじゃないほうが説得力があるだろう。

 二つ目の理由は「そのほうが心を揺さぶる話になるから」というのがあると思う。これに当てはまるのは、最終兵器彼女とかそうなんじゃないだろうか。あれがハッピーエンドだったら、それはそれでいいんだけど、なんか違う気がする。ごんぎつねとかもそうなんじゃないかな。和解してごんと仲良くやっていくよりも、殺めてしまったほうが、心が痛むし揺さぶられる。悲しみ涙を流すのも、終わったあとはスッキリするものだ。

 最後の理由は「読者にとっての教訓になるから」というのがあるんじゃないかと思った。これは僕だけかもしれないけど、悲しい結末というのは、読んでいて、こうすればいいのに、とかこうだったら良かったのに、ということをよく思う。「キジも鳴かずば」とか特にそうだ。ほんの少し村人が優しければ、ほんの少しのお金があれば、ほんの少しの寛容になれれば、なんでもいいから何かが少し変わっていれば、そうならない結末を迎えられたのに、と思う。そういう悔しさとかいたたまれなさ。それらが教訓となって、現実の生き方に影響するんじゃないだろうか。物語の著者は、わざわざそんなことを考えていないかもしれないけれど、昔話なら、そういう性質を持っていてもおかしくないと思う。

 月光条例では、もう少し別の結論を出していたような気がする。確か「寒い心の毛布」とかいうような。教訓ではなくて共感なのかな。ちょっとわからないけれど、読み返す時間もない。夏も終わることだし、この辺りで終いにしよう。

8/31/2014 10:58:40 PM

議論らしいけれど違うものについて

 暑くて目が覚めた。窓を開けて見ると、風がゆっくりと吹きこんできて、冷房をつけるほどでもないことがわかった。蝉の鳴き声もちょうど良いくらい。昨日はラブライブを全話見終わって何か一仕事終えたような気分になっている。いつかの寝る前に、議論というものについて考えていた。twitter でそういう話を見かけたからだ。今回は、その時思いついたことをまとめておこうと思う。

 しばしば、議論という体裁で行われるものが、それらしい性質を持っていないことがある。たとえば、いつかの国会を思い浮かべてみる。一方が「少子化が進んでいるので、対策しなければならない」と主張する。これに対して他方が「お前はどうなんだ? 早く結婚したらどうだ」と言う。整理すると下のようになる。

  • (A) 少子化が進んでいるので、対策が必要である
  • (B) 発言者(A)は結婚していないので、結婚するべきである

 (A)は社会全体のことを述べているのに対して、(B)は個人について述べている。両者が扱おうとしている話題が一致していないので、話が進まない。

 もう一つ例を考えてみよう。二人のオタクが喫茶店で会話をしている。一人が「ラブライブは面白い。なぜなら友情や努力があるからだ」と熱っぽく語る。しかし、対する男は「いや、なんか気持ち悪い」と冷ややかに応える。

 この場合はおそらく(A)は、ラブライブという作品の評価を論じようとしているが、(B)は、自分がラブライブに対してどう思っているか説明しようとしている。つまり「自分にとっては気持ち悪く見える、興味がない」という意味合いなのだが、(A)は作品そのものを否定されたような気分になって、憤慨するわけだ。これも作品の評価と、個人の感想なのでお互いの話題が一致していない。

 では、議論にするためにはどうしたらいいだろうか。それは簡単で、話題を一致させればいい。「ラブライブは友情や努力があるので、面白い」という主張を受けて反論するなら「ラブライブには友情はあるが、努力している場面はさほど多くない。説得力に欠ける」とか「ラブライブには友情も努力もあるが、面白いといえるほど深みはない。そんなものは使い古された手法で、単調すぎる」というような流れになるだろう。

 逆に「いや、なんか気持ち悪い」という主張を話題にするとしたらどうだろうか。個人的な意見なので、まずはその理由を引き出さなければならない。しかしそれを問いただしたところで「いや、なんとなくそうなんだ。気にしないでくれ」と返されたとしたらどうだろうか。この場合は(B)は、(A)の考え方を変えたいと思っていないので、(A)にはなすすべがない。議論というのは、両者がお互いの考え方を変えたい(自分と一致させたい)と思っていないと、スタートしないものなのだと思う。

 こうして考えてみると議論とは「互いに矛盾する主張を持った者どうしが、互いに合意できる主張を探して対話すること」だと思う。「互いに矛盾する主張」というところがわりかし重要だ。話題の対象が個人か社会か、客観なのか主観なのかによって、矛盾しないこともある。また、議論には向かない話題もあるということもわかった。個人の感想や意見については、必ずしも一致させる必要がないわけで、「合意できる主張を探す」気にならないのは自然なことだ。たとえば、納豆が好きか嫌いかで意見が割れるのは当然のことだ。そんなことでは、誰も議論しない。そんなふうに、自分が好きなものが否定されてたとしても、あまり目くじらを立てないほうがいいと思う。

7/27/2014 2:45:50 PM

趣味と大人

 急に気温が上がってきた。窓を開けると遠ざかる電車の音が聞こえる。今月はほぼ長袖で過ごしてきたけど、さすがに、もうそれも終わりかもしれない。世間ではワールドカップがあったり、都議会でのヤジが問題になったりしているけれど、職場でも家でも、ほぼそういう話が出てこない。僕が世間と隔絶しているのか、それとも多様な社会になってきたのか、どちらかはわからないけれども、平和なことだ。

 何か話題はないものかと探してみたけれど、マンガやアニメ、ゲームのことしか思いつかない。小さい頃から、まったく変化していないのがわかって、少しさみしくなる。僕は今年で二十八になったが、大人らしいところは皆無だと自覚している。とは言えもう子どもという年齢でもない。面倒くさい年齢なのだ。

 叔父さんのことを思い出す。彼はいわゆる大人らしい大人に見える。マンガもアニメもゲームも興味がなく、時代小説と将棋が趣味だ。保険会社で何十年も働いていて、投資信託みたいなことも請け負っているそうだ。オーストラリアドルの相場を気にしていた。絵に描いたような大人の姿だ。彼らは、どこで子供の頃好きだったものを手放したのだろう? 世間体を気にしてのことだろうか。仕事や家事で時間がなくなったからだろうか。別の楽しみを得たからだろうか。それとも、もっと大切にすべきことを見つけたからだろうか。

 大人の趣味も色々ある。さっき床屋に行った時、やたら大きな声で話す老人がいた。店に入ってくるなり、店主に向かって野球の話をし始めた。投手の何とかがいいとか、どこのチームが勝ったとか、監督がどうこうしたとか。訛りがひどく、わずかにしか聞き取れなかった。店主は愛想よく返していたが、迷惑そうに見えた。僕がカットを終えて、料金を支払っている時もしゃべり続けていた。野球中継が好きで、それ以外にすることがないのだろう。

 マンガやアニメを見て、ゲームをするということは、基本的には遊ぶ時間だ。ストレスはほとんどないし、そう頭をつかうことでもない。だから、不安を感じるのかもしれない。知識を取り込むことでもなく、訓練になることでもない。身体に良いことでもない。「楽しいからやる」という将来性のなさ、手軽さが子供っぽいのかもしれない。それを反転させるには、生み出すことに力を注ぐのはどうだろうか? たとえばマンガを描くということ、物語を書くということ、ゲームを作るということ。それらは頭を使う。特別な技術を要する。いつまでも子供でいないために、少し考えてみたい。

6/29/2014 9:00:06 PM

歴史物を読もう

 最近 kindle で適当に本を読んでいる。バックライトがあるので、仰向けでも暗くならないのが良い。おかげでゆっくりと樽のような体形に近づいている。肉を避けて野菜を食べるようにしなければ。まあそれはさておき。無料本などもあるので、浅く広く読むつもりだったのだが、原泰久の「キングダム」が面白くて、思わず一巻から三十三巻(最新刊)まで読み進めてしまった。秦の始皇帝が、中華統一するまでの戦いを描いた話。びっくりするほど個性的な武将が出てきて、苛烈な戦いを繰り広げている。中でも秦の怪鳥・王騎将軍が一番好きだ。「ンフフ」とか言いながら要所要所に出てきて、超人的な武力と知力を発揮する。彼がしゃべるときは筆のようなフォントになっていて、これがまた謎の味わいを醸し出す。中国の戦国時代はこんなに面白かったのか、と思い知らされた。もちろん漫画だから誇張してあったり、創作も含まれているんだろうけど、この熱さは三国志にも引けをとらない。

 歴史物の流れで三国志を思い出し、高校時代に読んだ吉川英治三国志に思いを馳せる。あれは面白かった。おかげで、読めもしない漢文のテストでそこそこ良い点が取れた。ならばと今度は日本の戦国時代に目を向けて吉川英治の「新書太閤記」を読み始めることにした。言わずと知れた豊臣秀吉の生涯を描いた長い長い話。この中での秀吉は子供時代から苦労し通しで、かわいそうになってくる。しかしめげず折れず、色んな辛さを知り、かえってひたすらにへりくだる。少しもひねくれたところがなくて、ばかみたいに陽気で人懐こい。物おじしない。頭も冴えていて、口八丁手八丁で無理難題をくぐり抜ける。面白い。会ってみたい。こういうところから自分にとっての目指す所、理想の人格を見つけるのもいいのかもしれない。織田信長明智光秀、若き日の徳川家康も登場してきて、その周りの物語もあるので、歴史のことにちょっと詳しくなった気がして、これもまた楽しい。

 教科書にはのってないが、こういうのは教育に良いんじゃないかなと思う。歴史を学んで「何が起きたか」を覚えても、心が動かされないのでポロポロと抜け落ちていく。特に戦国時代は、出来事だけを見ると「なんでこんな戦いを起こしたんだろう?」とか「なぜここで戦争に勝てたんだろう?」というようなことがわからない。おそらく指導要領にも含まれてない。なぜ本能寺の変が起きたのか? 教科書を見てもさっぱりわからないし、ずっと小国の主だった徳川家康が、なぜ日本を支配するほどの権力を得たのかもわからない。ただ運が良かっただけに見える。でもそれだけじゃないはず。そういう気持ちを満たすのには、歴史小説や漫画がうってつけだ。なるほどこんなドラマが有ったのか。これを知らないなんてもったいない。そう思えるようなものがきっと見つかると思う。

5/31/2014 3:40:45 PM

一歩も進まない状況を避けていったら良さそう

 今月の仕事はなかなかやる気が出ず、だるかった。メタプログラミングされた機能に手を加える必要があって、コードを読み解くのにものすごく時間がかかった。しかもまだ終わっていない。メタなので、プログラムが動きながら、プログラムの要素を定義している。いつのまにかクラスやメソッドが追加されたりしていて、一筋縄ではいかない感じ。動かして、変数の中を眺めたり、途中で止めてみたりして、どこからどこまで進んでいるのかようやく把握できる。つらい。ふだんプログラミングをかいているときの万能感とか支配感とかまったくない。どうにか直した箇所も、たかだか10行にも満たないので、何かこう、仕事をしている感じがしない。もし厳しく監督されてたら、一日の進捗が具体的に説明できなくて苦しいと思う。そんなふうなのでモチベーションも上がらない。まだ終わってないけど、こういう時に、何を支えにして仕事をしていくのかというのは、少し面白い話題のように思える。最初につまらないと感じてしまった仕事をどうやって変化させていくか、というところ。

 そういえば、ダークソウルもやたら難しくて、さっぱり進めない時があった。ダークソウル2の時よりも、1の時のほうがひどかった。当然モチベーションは上がらない。こういう時って、典型的な一つの方法として、土台を固めるというのがあると思う。ゲームで言うなら「レベル上げ」というところ。とにかく行き詰まったら、単調作業によって少し状況が良くなるよ、というタイプのもの。状況が良くなって、行き詰っていたポイントが打開されると、楽しくなってモチベーションが上がる。ゲームではよくあることだ。一方で、現実ではレベル上げなんて悠長なことをしていられない場合が多い。それに、レベル上げのつもりが、なんにも成長してないとか、全然どうでもいいパラメータを高めていたりとかそういうことがある。逆にモチベーション下がる。

 また別の方法として、真っ白なノートを開いて、すべての前提を放り投げて最初から問題を眺めるというやり方がある。余計な前提が取り払われるので、なんか新しいことが見つかるかもしれない。手がかりができるとやる気が出てくる。ダークソウルだと武器を変えてみるとか、魔法使ってみるとか、一つ前のダンジョン行ってみるとか。これもまたひとつの典型的な方法だと思う。何だかよくわからないのでリセットして最初からやろう、というやり方。ピクロスとかマインスイーパーとかやってて、どうにもつじつまが合わなくなった時は、最初からやったほうがまだましだったりする。クリア出来ていたとしても2周めのほうが新しい発見があったりする。

 白紙にして再スタートする手法から初めて、どんどん遡って行くと、そもそも問題自体の価値を疑い始める。「これ解く必要があるの?」「そもそも人間とコンピュータに解くことができるの?」とまあそういう風に。これは、あまりゲームではやらないかもしれない。

 さてそんなふうに考えて行ける時はまだいい。問題は進まない時だ。視野を広げてもただの夢想か甘えかにしかならない時。そんな時の仕事はとてもじゃないがやる気がしない。逆に考えると、こういう時こそがつまらないのであって、これを避ければいいのかもしれない。そのためには、一歩でも進んでいるということ、それが確かめられる状態を作ること良いような気がする。結局、土台を固めるとか、白紙にするとか言う手法は、進めない時に進めかたをさがす手法にすぎない。それらが功を奏するのは、止まっていたものが進むようになった時だけだ。仕事でもそうだと思う。実際、バーンダウンチャートというやつを書いていた時も、そう思った。たしかに一歩進む安心感。それだ。ただ、今日進んだことが、いつもグラフには現れてくるわけではない。そういうものを見なくても自分に対して、何が進んだのかと問いかけて答えを得ることが、やる気を保つ良い方法なのかもしれない。

4/30/2014 11:02:59 PM

Clean Coder の感想

 プロのプログラマ、あるいはプロのソフトウェア開発者とは何だろう。漠然と思い浮かぶのは、よく仕事ができるとか、綺麗なコードを素早く書くとか、そんな人だ。だけど、Clean Coder では、もっと現実的な人の姿が描かれていた。

Clean Coder プロフェッショナルプログラマへの道

Clean Coder プロフェッショナルプログラマへの道

 

 始まりは、チャレンジャー号の打ち上げ失敗のエピソード。チャレンジャー号の技術者は、ロケット打ち上げ時のリスクを発見し、データを揃えて上層部に訴える。しかし、上層部の判断で打ち上げは強行され、そして事故が起こる。彼らはそのことをどう考えているか。嘆いているのか、それとも、もっと改めるべきことがあると燃え上がったのか。いずれにしても、プロの話をしようじゃないか、という話題の前振りとしては、意味深なところがとても気に入った。

 ここでは、Clean Coder で描かれていたプロのやり方の中で、自分で取り入れたいと思う事柄について、書いていきたいと思う。

 第一に「危害を加えてはならない」という原則を採用したい。意味は、可能な限りバグを出さないようにすること。そして、構造を犠牲にした機能追加を行わないこと。人である以上、完璧にそれをするのは無理なのだけれど、目指すことはできる。手を抜こうとする自分を思い留めるには、こういった気高い言葉を片隅においておくのが良い。

 第二には「試しにやってみます」と言わないこと。もう少し詳しく言うと、十中八九できないとわかっている要求に対して、その場しのぎで「試しにやってみます」と答えないこと。この言葉には、責任感がない。「それじゃあ、試しに空中に浮かんでみます。試しに鉛を金に変えてみます。試しに大西洋を泳いでわたってみます。私にできると思いますか?」これは作中に出てくる言葉だが、実にもっともだ。やってできないことがわかっていることを、試すのは無意味だ。この言葉を使わないなら、できるかできないのか、自分の判断に対して責任をもつことになるだろう。特定の言葉だけにとらわれるのは良いことではないが、責任を考える、という意味では価値があるのではないかと思う。

 第三にはテスト駆動開発を試すこと。テスト駆動開発のやり方は実に簡単で「小さなテストを書く」「実装する」の2ステップの繰り返しをするだけだ。テスト駆動開発のメリットは、だいたい次のようなことが言われている。バグが含まれにくいこと、リファクタリングがしやすいこと、ドキュメントとして役立つこと。実のところ、このあたりのメリットは、テストを後で書いても変わらない。テスト駆動開発のもう一つのメリットは「テストしやすい設計を考えることを強制される」ということだ。こういうことを考えると、テスト駆動開発というやりかたは、やりづらいことを習慣づけるための方法ではないかと思う。たとえば、下のような文章を考えてみる。
「運動習慣がないことは、良くないことだと誰もが知っている。しかし、自分から進んで運動するというのは、なかなかうまくいかない人が多い。そこで○○ダイエット法を取り入れてみたら、運動習慣がついた」
文中の「運動習慣」を「テスト」に置き換えて、「○○ダイエット法」を「テスト駆動開発」に置き換えてみれば、まさにぴったりくるじゃないか。そんな思いつきに満足しつつ、ダイエットよろしくテスト駆動開発を試してみようかと思った。

 最後に受け入れテストを書くこと。言い換えると、Cucumber のようなシナリオベースの機械的なテストを書くこと。今まで普通のユニットテストはそれなりにやってきていたのだが、各機能の結合テストはすべて手作業でやっていた。だから、ひとつの変更が他へ悪い影響を与えていないかを検証するコストは、かなり高かった。そういうところを機械的に行えるのであれば、これを採用しない理由はない。一度も試していないので、悪いところも見えない。そういうわけで、次のプロジェクトでは、受け入れテストを書くことにしたい。

 さて。これで少しはプロのプログラマに近づけるだろうか。いや、そもそもプロになりたかったっけ? …考えてみると、また別の話になりそうだ。ともかく、こうして取り入れようと決めたことが、何かよい結果につながることを祈ろう。

3/30/2014 12:52:45 PM

勉強会に参加しないと不幸になる?

 結論:ごめん、技術者が勉強会に出たほうがいいのはわかるけど、なんかすごいストレスだしメリットを感じないこともあるんだ。なので不幸になるとか言わんといて。

 以下駄文。「コミュニティに入るか入らないかでエンジニアとしての幸福度がかわる(http://d.hatena.ne.jp/nowokay/20140225)」という記事を見た。関連記事に「勉強会に参加しないと不幸になる話」とある。勉強会にはあまり出ない僕は、良い気はしない。自分では特に不幸だと思ってないが、他人の評価基準から見ると自分は不幸だというなら、不安だし気持ちが悪いことだ。そこで、幸せについて少し考えることにした。それでまず出てくるのが、この記事の前置き。

あと、ここでの幸せ・不幸せというのは、エンジニアとして、という話で、エンジニアリング能力があがるとか、エンジニアリングの活動がやりやすいとか、エンジニアリングの活動が評価されるとか、エンジニアリングの話題を共有できる仲間が増えるとか、そういう観点です。

エンジニアとしての幸せ以外にも、人生にはさまざまな観点の幸せがある、ということは最初に補足しておきます。

 なーんだ、そうか、と納得する。僕は「エンジニアとしての幸せ」以外の幸せまで含めて考えていたから、かみあわなかったのだろう。勉強会に出なくても色々な幸せはあるので、不幸とか決めつけられても困るな、という感情だ。だけど、話題を限定しているなら、そういうこともない。技術者の世界で活躍することを考えれば、確かにコミュニティに入っていたほうが有利だし、何かのコミュニティを見つけて入っていかなければ不幸になるというのもわからなくはない。

 ちなみに、自分の経験から言うと、行ってもメリットがなかったな、と思うような勉強会も存在する。どこかに書いてあるようなことを皆で実験して、何のつながりも生まれなくて解散するつまらない勉強会。疲労感から、講師の自己満足じゃないか、とぼやきたくなるような。自分で勉強したほうがマシだ、というような。そういう時に、少しでも何かを手に入れようと誰かに話しかけたり、積極的に質問を出したりするような精神が必要なのだろうけれど、残念ながら僕にはそういう勇気がなかった。勉強するのはわりと好きなんだけれども、沢山人が集まる所というのは、どうも苦手だ。まずはそういうところに、自分を慣らしていく努力が必要なのかもしれない。

2/27/2014 7:53:07 PM

ドミニオンの感想:作戦マニアには楽しい

 この前、ドミニオンというカードゲームで遊んだ。(http://hobbyjapan.co.jp/dominion/)あまり詳しくはないけど、ドイツのゲーム賞で大賞をとっているくらい有名なゲームらしい。ちょっとやってみた感じだと、工夫したり計算したりするところがあって、おもしろい。たとえばビレッジを引いてアクションの回数を増やしてから、スミシーでカードを大量に引いたり、セラーで山札の回転率を上げてから、リモデルでいらないカードを捨てていったりとか。僕はひねくれ者であり、手垢のついてない戦法を探すのが好きなので、ウッドカッターとか使えねーかなーと思って、それ専用の作戦を思い描いたりした。

 で、そういう妄想をするのは非常に楽しいんだけれども、そういう作戦は弱いから誰も採用しないわけであって、成功することは稀だ。なので何度かやっていると、冒険を避けて、定番ばっかりになるのがつまらなかったりする。たとえば、チャペルが出てきた時はそれ引かないと勝負にならなかった。いらないカードを山札から消し去ることができるので、欲しいカードをボンボン引けるようになってしまう。これはあかん。あとビレッジもローリスクで、1度引き始めたら1ターンが長くなるのでつまらん。ような気がする。だがそういう強いカードを避けていてはまず勝てない。まあ、どれくらい引かなくても勝てるのか、というラインを探すために、少しずつ作戦を修正していくのがいいのかも知らん。

 勝つためには記憶力と、確率の計算も重要だ。ドミニオンの最初の山札は全員同じようになっていて、金貨7、領地3の合計10枚と決まっている。このなかから最初に5枚を引くわけだけれども、その組み合わせは(金貨、領地)= (5,0) or (4,1) or (3,2) or (2,3) となる。5枚引いた後、残る山札は5枚だから、引いたカードを覚えていれば、次に引くカードを予測して行動を決めることもできる。計算してみたところ、2回のドローで金貨5枚が引ける確率は、1/6 だった。(この計算はけっこうおもしろいのでいつか書こうと思っている)

 そんな感じで、頭をつかう部分は多い。そのぶん、プレイヤーの技量と知識が問われる。達人が存在しうる、ということをちょっとでも想像できれば、そのゲームはたいてい面白くて奥深い。場が膠着してきたら場札の組み合わせを変更できるし、拡張パックとかも売ってるので、長く遊べるなかなか良いゲームだと思う。僕は一個しか知らなかったけど、推奨セットはたくさんある(http://suka.s5.xrea.com/dom/)らしい。ので、このセットごとに作戦を妄想するのは面白そうだ。

1/29/2014 11:19:43 PM

苦手とか嫌いとかいう中にある因縁と未熟さ

 もう、2013年も残すところあとわずか。次の年になる前に、今年最後の日記を書いておこう。この一年を振り返ってみると、それなりに色々あったけれど、一番覚えているのは新入社員の面倒を見ていたことだ。

 正直に言うと、彼のことが苦手である。単純に、自分が人と会話するのが下手だからかもしれないが、それを差し引いても、日常から「彼は苦手だ」という感情がもやもやと漂っているのだ。その原因について考えてみた。まずは、僕が彼について違和感を抱いた出来事を思い出してみよう。

 ある時僕は、彼から質問を受けて、解決策を2つ提案した。そして、どちらがいいですか、と疑問を投げかけた。「前者を選びたいと思います」と彼は言った。僕は、前者とか後者とかいう言葉に、いやな感情を抱く。自然な会話ではまず生じない言葉だからだ。

 たとえば、「りんごとみかん、どちらが良いですか?」と問われた時、りんごとみかんが頭のなかに浮かんでくるだろう。その時、あなたは順序を考えているだろうか。おそらく、考えていないはずだ。だとすると、前者とか後者とかいう言葉を使うには、発言した順序をさかのぼって、その実体が何であるかを考えなければいけない。これは不自然である。僕は、そういう不自然なことをする人に対して警戒心を抱く。「何をカッコつけてるんだ」と。

 その他に、こちらの依頼した仕事がうまくできなかったりとか、説明がわかりにくかったりとか、色々小さな問題はある。新入社員だから、どうしようもないことなのだとわかってはいるけれど、そういうものがどうしても、嫌な感情を引き起こす。彼は大学院にまで行って勉強しているはずなのだが、文章の書き方だとか、論理的な会話だとかそういうものにセンスを感じない。

 僕は同じく大学院まで行ったが、四六時中研究のことを考えて、性根のねじ曲がった教官にどやされ、悪夢を見続けたものだ。成果が出ず人格否定されて、本当にろくでもないことばかりだった。

 未熟さ。それが許される環境が羨ましいのだろう。聞けば答えが帰ってくる環境。間違っても許されるという環境。そういう甘い状況。それは本当は僕が欲しかったものだ。それを彼は持っている。皮肉なことに、僕自身が与えているふしさえあるのだ。本当に極めてひとりよがりな決めつけであるが、そういう風に勝手な想像をして羨み妬んでいる。

 だいたい、彼のことが苦手である原因はわかった気がする。なにやら面倒くさい感情である。こういう僕に対して、先輩は「君が与えているだけじゃなくて、彼から与えられるものもあるだろう」と言った。そんなことを考えていると、僕の教官が、恐ろしいことを言ったのを思い出す。「私達は相互に与え合うもののはずです。私は色々なものを与えたつもりですが、君からは何ももらっていない」

 さて。色々な感情はあるものだが、表に出てくるものはそう多くはない。僕がこうして考えたように、彼もまた何事かを様々に考えているだろう。苦手であっても火はつかない。原因が分かったなら、気をつければいいことだ。自分の未熟な面もまた気づけたことであるし、まあいいじゃないか。

12/31/2013 6:56:20 PM

面倒くさいけど、自分で決めたほうが良い

 もう十一月も終わり。今月は特に何もなかったな、と思いながら適当に人の日記を見て、気になったのがこれ。「お酒を飲むのを強要されたかった」という記事。

  http://anond.hatelabo.jp/20131128231038

 正直なところ、僕は「お酒を飲むのを強要されたかった」と思ったことなど生まれてこの方一度もないし、これから先も永遠にないだろう。だから、僕はこの記事を書いた人が、どうしてこんな記事を書いたのかが気になった。

 単なる想像だけれども、ルールを破る言い訳が欲しかった、ということが1つの理由ではないかと思う。自ら進んでルールを破るのは恐ろしいことだ。ルールを破ったものは当然、罰を受けるだろう。しかし、他人からルールを破るように指示されたのであれば、罪悪感は和らぐ。責任がすり替わるのだ。だからこそ「お酒を飲むのを強要されたかった」のだろう。

 記事を書いた人は『「未成年飲酒は悪」という固定観念に囚われてしまった』と書いている。『「あぁ、普通の人はやっぱり成人するまで酒飲まないんだな」とか高校生の頃は誤解してた』とも。そうまで書いておきながら、それでも結局飲んでない。本音と建前とか言って、割り切ってるわけでもない。この心の揺れが、いかにも若者らしい感じがする。

 子供の時は「大人がそう言ったから」 というのは究極の理由だった。少し年をとって「人がそう言ったから」に代わった。それからもう少し年をとって、いつまでもそれだけを支えにすると生きにくいようだ、ということがわかった。面倒なことだが、自分で判断して自分で責任を負ったほうが良い。なぜなら、人に判断を任せても、その責任は自分に降り掛かってくるからだ。

 「お酒を飲むのを強要されたかった」そんな風に、人に判断を委ねて、言われるままにするのは楽なように思える。けれどきちんと考えたら、何らかの答えがひとつ定まるはずだ。たとえば「法律違反の罪を負うのは自分だし、体を壊したとしても誰も代わってくれない。だから未成年飲酒はしない」というような。あるいは、「そんな大層なことになる可能性なんてたかが知れているから、多少のリスクは負ってでもお酒を飲んでみたい」という考えもあるだろう。どっちにしたって、自分で決めれば後腐れはない。失敗したって、そんなに後悔はしないはずだ。

 個人的なことを言うと、僕は酒の良さがわからない人間だ。だから、そういうことに悩んだことはない。ただ、お酒に関しては大失敗した時のリスクが大きいので、気をつけたほうがいいんじゃないかと思っている。

11/30/2013 12:44:07 AM

少し切実な僕の創作の動機

 「創作における間違った信仰」という日記を読んだ。創作のモチベーションは様々で、ちやほやされたい、という欲望があるのは自然だと思う。ただ、それが動機の大半だと考えるのは少々悲観的なように思えた。自分の場合、ちやほやされたい気持ちはあるけれど、実際に褒めてもらったことなんてほとんどない。作っては潰す。作りかけて投げる。そんなことがずっと続いているのに、未だにやめられない。

 僕は、自分がゲームや物語を作ろうとする理由について考えた。それには、僕の過去についてのいくらかの前置きが必要になる。

 小さい頃から、家にいて暇な時間を見つけると、なんとはなしにゲームをしてきた。それは今でもたいして変わっていない。それは周りと比べると少し異質だった。度々、何か別のことをするべきなんじゃないかと不安になることがあった。だけど、ゲームをしている時間が一番リラックスできて、楽に、スムーズに始めることができるから、止めなかった。少しばかりゲームを作ったこともあったが、ほんとうになんとなく作っただけだった。

 転機になったのは就職活動だ。そこでは、これまで何をしてきたのか、これからどうしたいのかが問われた。僕はただゲームを遊んできただけで、人と接するのは苦手だ。だから割と素直にそういう話をした。「そういう人が欲しい会社なんて、あると思うか?」そんなことを言われたと思う。ひどく絶望的に思えた。

 僕はそこで、素晴らしい言い訳に出会った。「創作者には、あらゆる想像力が必要だ。あらゆる経験が作品の糧になる」たいした見聞も持たない僕がなぜ、そんな言葉に光明を見出したのかというと、この言葉からは「どんな過去の経験であっても、無駄なものはない」という結論が導かれるからだ。「僕は創作のためにゲームをしてきた、そのために研鑽し見聞を広めたいと思っている」そのような前向きな自分を作り出すことができた。都合の良いことに、文章(論文)を書くための訓練をしてきたし、プログラミングの勉強もまたそうだったから、ものを作るためのタネと、手段を持ち合わせていたことになる。

 僕の創作のモチベーションとは、それだ。無為に過ごしてきたように思える時間が、無駄ではなかったことを証明するための手段。それが創作だといえる。

1.ゲームをすることは無駄ではない。
2.なぜならその間に自分の中に積み重なるものがある。
3.その証拠に、僕はこんな素晴らしい物を作ることができる!

 そういう論法だ。正直なところ、現実はより曖昧で複雑だ。こんな方程式を作り出す前から、ゲームを作りたいと思ったこともあるし、実際に作っていた。完成しないゲームであっても、物語であっても、そこに自分が見つけたものの姿を見ることができて、少しだけ楽しい。

 もう少し時間を置いてみれば、別の動機を見つけることもできるだろう。けれどさしあたり今の僕がゲームを作る理由は、ちやほやされたいという欲望よりも、もう少し切実な部分が大きいはずだと信じている。

10/7/2013 1:35:07 AM

彼女ができないという話

 とある人の話を聞いて、人は色々な悩みを抱えているんだなということを改めて思った。僕はわりかし気楽に生きているが、それでもあまり口にしない悩みは色々ある。そういう自分が向き合ってない部分を、見つめてみようかと思った。なのでできるだけ正直に、彼女ができないという話をしよう。自分の弱さとかダメな部分を知ることによって、求めるものに近づくための方法を探すことにもなるし、あるいは諦めて別のものを求めていくべきだという答えが得られるかもしれない。誰かと面と向かってこんな話をするのは絶対嫌だけれど、文字にするのは、僕にとってはそれほど苦ではないみたいだ。


 僕は女性にもてたことなどないし、誰かと付き合ったこともない。もちろん肉体関係などあるはずない。まあ性欲は人並みあるから、エロいコンテンツを見たりもする。実際の人間と接することがなくても、ネットがあるおかげでかなりの部分について性欲を満たすことは可能だ。いいんだか悪いんだか、ここである程度満たされてしまう。彼女なんかいなくてもいいや。という気持ちになるわけだ。それでも心の片隅には、パートナーを見つけてその人と時間を過ごしたいという感情がある。


 そういう気持ちがある中で、合コンというものに、3回くらい行ったことがある。まあ全部会社の人に誘われただけで、主体的なものはない。1回目はそれなりに話が盛り上がって連絡先を交換できた。なんか相手の人と連絡が取れなくなったので、結局失敗だった。盛り上がったと言っても、何か僕はいじられてただけのような気がする。主体的な発言はとくになし。


 2回目はひどかった。特別話すことがなくて何か僕だけ黙っていた。知らない人が向かい側で主役になって、色んな人の気を引きつつ、次絶対また会おうって約束してるのを聞いてたら、もうやってられない気分だった。そして、それに誘ってくれた人も気が合う人を見つけてしまって、そっちに夢中になっていたので僕はただうまくないメシをさっさと食べて、あとはひたすら早く終わらないかと思っていた。これは実にひどい経験だった。こういう時に気持よく話している人たちの話題に割って入るほどの根性は少しもない。とりあえず負け犬気分で去るのみだ。その次の合コンはお断りした。


 そのことは忘れた頃に、もう少し内々で3回めをやった。この時は自分のダメな所を知ってしまった気がする。まあ話はそこそこに盛り上がっていた。相手の人の連絡先を教えて欲しかったのに黙っていた。それで友人Xが連絡先を交換していたので、後で教えてもらおうって言いつつ何も言えてない。結局、そのXに対して「さっきの人の連絡先教えてくれないか?」って聞くのが実に格好わるいことだと思っているのだ。それくらいだったらその場で教えてもらえばいいんだけど、どうも何か自分がコントロール出来てない。それが自分のダメな所。多少なりとも、人前で格好つけたり要求を通したりすることは、別段悪いこととも言えない。そういうところで身を引いてはダメだなと思う。


 そういうところの精神構造は小学生ぐらいの頃と何も変わっていないなと思う。要するにあれだ。子どもたちが遊んでいる輪の中に「ぼくもいれてよ」という一言が言えない子供。そんな感じ。求めて断られるということを避けているわけだ。そういうところが弱点なのだろう。たとえば「○○を食べにいこう」とかもわりとダメだ。文字にしてみればなんとも何気ない要求だが、そういうことを発言するのができない。常識的に考えれば、そんな要求が受け容れられたって、断られたって自分にも相手にもさして影響はないのに、なんかできない。この辺をもう少し変えられたならば、受けはよくなるんじゃないか。


 それでそれ以降はとくに何もしていない。以前誘ってくれた人はすでにパートナーを見つけてしまっているので、このまま過ごしているだけでは変わらないだろう。うーん。我ながら実にヘタレである。そう、ルーンファクトリー4で結婚相手を選べてないくらいのヘタレっぷりである。誰かを好きであるということを隠さない人、自分の要求に素直な人、たとえば○○ちゃんぺろぺろとか日常的に言えている人はわりと凄いと思う。まあ、当人がいないから言えてるだけなのかもしれないけど。

 だいたいわかった。とりあえずルーンファクトリーやろう。そうしよう。

9/23/2013 1:18:32 AM

僕はこれから、選択肢を網羅するのはやめようと思った

善人シボウデス」を遊んだ。けっこう面白かったが、あっけなかった。

振り返ってみれば「たった2つの選択肢しかないというのに、考慮すべきことが無数にある」ということが面白かったのだと思う。ゲームルールは長いので省略するが、おおまかに言ってしまえば、「相手と協力する」か「相手を裏切る」のどちらかを繰り返すだけのゲームだ。それなのに、悩んでしまう。

相手を殺してしまうかもしれない。あるいは、殺されるかもしれない。そういう不安がある。信頼に足る相手は誰かを観察する。誰も死なせないようにゲームを終わらせるにはどうしたら良いか思案する。そうして参加者たちの人間関係を探る。

最初の一回はうまくいかない。死なせてしまう。自身も倒れる。それは良い。まあ許せる。選択を誤ったということだろう。セーブとロードがあるゲームだから、過去に遡って自分が選ばなかった選択肢を選ぶのはたやすい。

選びなおしているうちに、自分が何も考えてないことに気づく。他に選択肢がないから、考える必要などないのだ。ただすべての組み合わせを試しているだけなのだ。僕は思わずため息を付いた。なんという退屈さだろう。そして振り返る。動悸を抑えながら選んだ最初の一回は、なんと面白かったことだろう。以降の選択には、それがない。これがあっけなさの正体だ。

結局ぼくは、一週間以上かけて、ほとんどすべての選択肢を網羅し、最もマシな結末を眺めることができたわけだが、その時抱いた感情は達成感よりも徒労感が大きかった。

初めてやることと、すでに体験したことを再びやるのとでは、新鮮味がまるで違う。それは当然のことだ。それなのに、どうしてこれほどつまらないと感じたのだろう。

1つには「人物が変わっただけで物語の展開は変わらない」選択肢があったことだ。いかにも作為的で、げんなりする。もう1つは読者に伏せてある「謎」が大量にあったことだ。単純にぼくの記憶力と頭脳ではついていけなかった。よく覚えていないことについて、解説されるのは退屈だ。謎というのは多ければいいというものでもないようである。

2、3の選択肢を何度も選ばせるゲームはどれも、似たような側面を持っているだろう。もし、2つ目、3つ目のルートが極めて退屈なら、1つ目の感動が消えないうちに別のことをするほうが懸命なようだ。

8/8/2013 9:04:01 PM

成長とは何か?

Tさんいわく、「やばい」という言葉がじつに広い意味で使われている。このように、現代では言葉の意味を明確に捉えて発言しなくても、おおまかに伝われば良い、という風潮がある。

物事を考えることが昔の人と比べて下手になっている気がするのだ。ある1つの適当な言葉に着目して、そのものが指す概念をより明確に理解すれば、もう少し物事をうまく考えられるのではないか。さて練習をしてみよう。

このような経緯によって、僕を交えた3人で下のような対話が行われた。
誰が発言したか整理する手間を惜しんでいるので読みづらいかもしれない。
僕の記憶力はかなり曖昧であるので、漏れている情報もいくらかあるだろう。

さしあたりの問題として「成長」の定義について話をすることになった。
なぜこのキーワードを選んだのか経緯は忘れた。(早速漏れている情報)

まずはわかりやすいところに、肉体的な成長があるだろう。体重とか身長とか筋力とかの変化だ。これははっきりしているので、あまり詳しく話をするまでもない。そうじゃない成長について考えることにしよう。

「しようと思っているけど、できなかったことが、できるようになること」ではないか。たとえば、ダイエットしようといつも言っているけどできない人が、何かのきっかけでできるようになった。これは成長じゃないだろうか。

いや、そうとは限らない。その人が考えていたダイエットが、運動方法によるものだったとしよう。数年がたち、新しくより簡単な方法、たとえば食事制限によるダイエットが発見されたとしよう。その時、ダイエットをするということ自体が簡単になっただけであって、その人自身の考え方や技術向上はない。
それは成長してないのと同じじゃないのか。

ゲームをクリアできるようになることは成長だろうか。それは成長のように思える。失敗したり試行錯誤していく中で、できなかったこと、クリアできなかったステージがクリアできるような手さばきが身につくことは成長ではないか。

しかし必ずしもそうではなく、経験が重要なのではないかと思っている。たとえばマリオブラザーズ3では、笛アイテムがある。これは、いくつかのステージをスキップすることができるアイテムだ。これを使ってラストステージまで到達することは成長と言えない。なぜなら、そこには試行錯誤がなく、繰り返しによって裏付けられたもの、経験がないからだ。

なるほど確かに、攻略本なりなんなりの情報源から笛の取り方を知って、実践するのは簡単かもしれない。しかし、そこから何かしらの発見があれば、それは成長といえるのではないか。たとえば、画面外を通ることができる場合がある、という発見。あるいは隠されたアイテムが存在することがある、という発見。行き場のないときに高いところへ行ってみれば、通路があるかもしれない、という発見。このような、ゲームをプレイする上で、よくある隠された規則性を見出した場合、それは成長ではないか。

実生活には何も役に立たないが、それを成長と呼べるのか。それは、実生活には役に立たないという前提が間違っている。見えないところにものが隠されている、というレベルまで抽象化すれば現実に適用可能な経験則となる。だから、決して無駄とか現実に役に立たないとは限らない。

逆に発見がなければ、つまり、たまたまうまく行ったり、失敗したりを繰り返しているだけでは、成長とは呼べないのではないか。スラムダンクの「まるで成長していない」とはまさにこれ。博打で破産するような人か。でもHUNTER x HUNTERのネテロ会長はただひたすら正拳突きしていた期間で、まるで成長していない時期があったのではないか。ある時、急に成長したのじゃないか。


たしかに、マクロの成長とミクロの成長はあるでしょう。積み上げていったものが、きっかけとなってある時急激に成長する。そのケースはあるだろうがやはり、全く成長していない、というのも別にあるだろう。発見したということを認識すること。自分が成長したという認識を持つことも成長に関わっている。

コンピュータと人の関係もそれに似ている。コンピュータは一瞬でポケモンを全種類記憶することができ、いつでも取り出すことができる。しかし、そこには何の発見もない。ただデータベースを持っているだけだ。

一方、人間がポケモンを全種類記憶する時、その人は何らかの反復的な練習を行い、
意識的に、あるいは無意識的にポケモンどうしの関連性を理解して、名前を記憶するはずだ。たとえば、進化系統順に覚えるだとかいう戦略を編み出すこともあるだろうし、
明確な戦略として発見できなくとも、進化形は似た名前を持っているから暗記に役立つであろうということは、経験的に理解できるだろう。たとえば水タイプだけ先に覚えてしまうとか、そういう方法論を得ることができるわけだ。加えて、暗記するのには、絵を描いて覚えると良いとか、そういう一般的なレベルまで抽象化した暗記の手法を得るかもしれない。あるいは知っていた方法の実験の場となる。


とにかく、そのようにコンピュータが行なっていることは成長とは言えず、人が行っていることには、何らかの発見や経験の蓄積があって、それを成長と呼ぶのではないか。

スターバックスの店員が、僕の挙動を見て、店に慣れてない人だということを推察して、カップサイズを実際に見せながら説明してくれた。僕は説明してくれとは一言も言ってないのだが、店員が客の挙動を観察して対応を変えていることに少し感心した。
ここで行われていることは、店員側の観点の1つを知ったということだ。これは、1つの成長であるかもしれない。

観点を知っただけであって、自分がそのような観点を取りたいとは思っていないが、それは成長と関係しているか。

たとえばスターバックスの店員の動きを見て感心したわけだが、そのようになりたいとは必ずしも思わなかった。観点を知って、自分の中に取り込むことがある。このようなときは、大きな変化が自分の中で起こっている。逆に、どうでもいい…とまでは言わないが、あまり自分に変化を与えない観点を知ることもある。たとえば、ひどく自分勝手な人がいて、その人と接することで、打算的で自分の利益を追求する、という観点を得たとしよう。多くの人は、このような方針を採用することはなく、むしろ嫌悪するはずだ。

いや、反面教師としてそれは、やはり影響を与えているから、大きな変化、成長が起こっているといえなくもない。

いくらかの対話は、まだ続きそうにも思えたが、これを収束させるのは難しいように思えたので、僕は早々に降参してしまった。そのうちにまた考えが再開されるかもしれないが、そうでもないかもしれない。ともあれ、そのまま忘れ去ってしまうには惜しいように思えたので、まとまらない文章ながら、ここに残しておくことにする。

7/4/2013 2:08:24 AM

艦これの話、…いや擬人化の話をしよう。

いつも買っている弁当が売り切れていたので、路頭に迷った末に職場のすぐ裏にある小さな洋食屋に入ってみた。僕より二回りは年上のおじさんたちが、タバコを咥えて雑談している。受け取ったメニューはあまり見ないまま、日替わりランチを頼んだ。初めて行く店だから、とりあえず日替わりを頼んでおけば良いだろうと思ったわけだ。出てきた料理はあまり見たことのないこんにゃく料理とサラダと豚トロだったが、味はまあ、ごく普通だった。値段も高くも安くもないありふれたもの。食後に出てきたコーヒーで一息ついて店を出た。

さてそういう風に、思い起こした所で別段面白いことがないのが日常だ。仕事上の小さなトラブルはいくつかあったけれど、自宅でわざわざ仕事のことなど考えたくはない。こうして日記を書く片手間に、なんとなくブラウザを立ち上げて動かしているのが「艦これ」だ。少し艦これの話、…いや擬人化の話をしようと思う。

艦これが何か分からない人のために、もう少し説明しておく。艦これは、日本の軍艦を女の子に見立てたカードを集め、育てていくゲームだ。よくあるカードゲームと同じように、キレイな・かっこいい・可愛いイラストが書かれている。破損するとエロすぎない程度に服が破れるとか、よく通信エラーになるとか、ここに書いてないことも色々あるだろうが、その辺はまあいいとしよう。とりあえずここで注目したいのは、人でないものを人に見立てることの効果についてだ。艦これでは、軍艦をモチーフにした女の子が大量に登場する。そういった擬人化には、どんな意味があるだろうか。

一つには、たやすく多様さを生み出せることがあるだろう。ものとしての性質や傾向に目をつけることで、それらを反映した多様な人格を生み出すことができるわけだ。実際艦これでは、ある空母は戦闘で強いが被弾しやすい自信家とか、戦艦は打たれ強くて従順とか、そういう属性の付け方が行われているようだ。僕は軍艦に詳しくはないが、そういう性質がイラストに反映されていたりするようだ。

また一つには、そのものが背負っている物語を共感しやすくし、親しみをもたせる効果があるだろう。たとえば、はやぶさという名の小惑星探査機を思い出してほしい。はやぶさは、実にドラマチックな最期を迎えたことで有名で、映画化もされた。僕はこの映画を見たことがないのだが、CMで日本語を喋っていたのを覚えている。それは弱々しいが前向きであり、強烈にいじらしさを感じさせるものだった。

こうして見ると、擬人化はいいものだ。ご当地キャラなんてのも、こういう狙いがあるのかもしれない。単に名物というだけでなく、人間に置き換えて色付けすることでわかりやすくする。ネタに困ったらとりあえず擬人化しておけば良いような気がしてきた。はてどうだろう。

6/28/2013 12:38:17 AM

pixiv オフィスに嫌悪感

 なんか大学生の時にやっていたブログを人に発見されて「けっこう面白かったね」と言ってもらったので、久しぶりにまた書き始めてみようかと思った。なんでそのブログに記事を書かないのかというと、パスワードも忘れてしまったからだ。まあネット上に漂うゴミみたいなもので、こういうのをなんて言うんだったかな、そうスペースデブリというやつだ。処分するコストが高いから放置しておくが、時々ぶつかってしまうと危ない。そんな感じ。

 格別書きたいことなんて何一つないので、日頃を振り返ってみる。最近クリアした女神転生4について書こうかなと思ったけど、まあいきなりゲームの話をしたら、興味のない人にとっては退屈だろうから、それはやめておこう。さてじゃあ代わりに何か話せることがあるだろうか。そうそう、pixiv のオフィスがなんていうかセレブ過ぎて「うげげ」って嫌悪感を抱いた、と言う話をしておこうか。僕がそれを見つけたのは下の記事だ。

http://blog.kushii.net/archives/1840195.html

 なんだろうな。第一語には「ちくしょうめ」と叫んでしまいそうな感じだ。これはまあ突発的な感情であるから、ちゃんと理由を探ってやらねばなるまい。で、考えてみる。なんかよくわからんし無茶な例えだが、王族の宮殿を見た農奴のような気持ちだ。「なんだこの贅沢は。なんで俺はこんなに儲かってないんだ。pixiv なんか大した仕事してないだろちくしょう」とかそういう気持ちだ。第一の感情はどうもそういうシンプルな嫉妬にあるようだ。で、これが正当なものかというと、まあそれはどうだろう、わからない。弱者のたわごとなんだろうか。

 僕の怒りが正当かどうかを考えるには、そもそも pixiv という企業が稼いでいるお金ほどの価値を提供しているのか、ということを考えなければなるまい。悔しいことだがいい製品やサービスを提供している applegoogle が儲かっていることについては、理不尽さを感じない。一方で pixiv ってのはそれほどの仕事をしているのだろうか。

 pixiv は画像投稿したり、他の人の投稿に点をつけたり何だりするサービスだ。そのサービスの仕組みは複雑ではないし、おそらくクローンサービスを作るのはそう難しくない。これと似ているのは、twitter があるだろう。そんな風に、サービスの複雑さや高度さにかかわらず、最初に良いサービスを考案してインフラを整え、ユーザを集める企画をやった、ということが価値なのだろう。

 新規性というのは公に価値が認められている。論文の価値の尺度には、新規性が含まれているし、特許をというのは新規性を保護するための仕組みである。pixiv にもそれはあるのだろう。だから僕は心を鎮めるために「pixiv はいい仕事をしている。だから良いオフィスで仕事ができて当然なのだ」と思うことにしよう。

6/14/2013 3:17:47 AM